また面倒な言葉を見つけてしまった。
これについて深く考えることはしない。すぐに思いつく反論も、きっと論破されそうであるし、「それは確かにその通り!」とも安易に言えない。
今の世界の情勢を見ていても、何が善で何が悪なのかも考えれば考えるほどわからなくなる。
そこで迷ってしまったら、子供のしつけをするにあたっても考え込んでしまうし、夫婦での共通の善悪の判断も微妙なものになってしまう。
日本の現在住んでいる場所において、そしてその置かれた狭い環境で無難に生きていくための基本的な「普通」に沿って「当たり前」に生活するための「善悪の判断」ができていれば良い。
このように書いていても、それでさえ各自それぞれの育ってきた環境の違いがあり、それぞれの「普通」があるから、それらをすり合わせていくことは思う以上に難しいことで、そのすり合わせに大切なことは、日々の挨拶であったり、笑顔であったり、可能な範囲での我慢や辛抱や、相手への理解や受け入れであったりするわけだ。

そんな絶妙なバランスの中で生活して、揺らぎながら日々を過ごし、何かあったら助け合い、ひとりで生きているつもりでも、いざ少し離れたところ見れば自分も水族館でみるイワシやアジの大群の1匹に過ぎないことがことがわかる。
その中でどのように生きていけば良いのか。「絶対的な善悪は存在しない」と大きな声で叫んだとして、それがどうしたってことなのだ。
ただ、「そうは言ってもこれは絶対的に悪だということは、世界中のほとんどの人が認めることだろう」と思っているようなことであっても、それは多くの考え方のただ一つであるということと認識していた方がいいのだろうと思う。
そうなると、自分が持ち得ている「常識」というものが通用する世界でだけで生きていくことが一番気楽であるように思う。「世界はひとつ」という概念の中で、どのように一つの「常識」を共有するかなんて、なかなか難しそうだなと思うばかりだ。
それぞれの環境で育った2人の男女の「常識」をすり合わせていくことだって神経をすり減らすのに、それがそれぞれの長い歴史を持つ2つの国だったら、まして世界を一つになんてと考えると、ちょっと目眩がしてくる。
>環境で育った2人の男女の「常識」をすり合わせていくこと
⇒最初の1年間はもめたもめた。
しんちゃんママの実家は
「正午と午後7時は絶対にNHKニュース」だったので、
しんちゃんパパがその時間、民放を見ることが信じられなかった。
最近、しんちゃんパパは、
「(午後)7時はNHKだろう!」と言っております(笑)。
しんちゃんママさん
>「正午と午後7時は絶対にNHKニュース」だったので、
そういうのありますよね。「なんかイヤだ」って思うことをお互いに遠慮がちに言い合って解決策を模索してきた感じです。
「あり得ない」とか「ふつーこうだろう」とかって口に出してしまうとややこしくなりそうです。(^_^)
「ゼッタイ」という言葉が発せられた時、結構緊張しますね。
成長、衰退、変化が繰り返される中で、どれほど変わらずあり得るものか。
マクロで変わらんと思っていても、ミクロでは常に変化、流動している。
球体の地球とて常に変化し、そこに生きるものも常に変化が強いられる。
人間の価値観なんて、半転するくらい容易に変わり得るものと思う。
昨晩、保育園での虐待報道を見て、「昔と今」の様々な『尺』の違い、変化を家族と語り合いました。その程度の変化は、世の中に山の様にありますね。
カラスさん
同感です!
>昨晩、保育園での虐待報道を見て、「昔と今」の様々な『尺』の違い、変化を家族と語り合いました。
うちも妻と話しました。こういう報道に関して何か意見を言うのは本当に難しいです。
独特な正義を振りかざす報道は、それはそれでたくさんの中の一つの意見ってくらいに思っています。
たまに、自問自答されるみたいですね。
だぶん、嫌な事があったのでしょう。
一般人さん
ふふふ、勘ぐり過ぎです。
絶対的な善悪はない、そう言い切ればそうなる。反証探してる間に一生終わるもん。。物理学では超弦理論というのが出てきて、量子力学の先に行こうとしてるらしいけど今のところ量子力学では観測されると結果が変わるというのだから、まあまあ「絶対的な善悪はない」という命題を裏からサポートしてるのではないのでしょうかねえ。。しらんけど。KURIさん、ひさしぶりに「グルグル」してきたね(笑)。
あかいみさん
ありがとうございます。「グルグル」と考えるのは楽しいことなんだなって思えるようになってきました。「これはきっとこうだ」と決めつけちゃって、それで問題なく暮らせていたら楽だろうけどね。自分の頭で偏見なしでゼロから考えることって面倒だけど楽しい。(^_^)