
レジ袋を有料化するのはいいけど
その目的が地球温暖化のためのプラスチックゴミの減量のためというなら、これだけ毎日消費しているマスクはどうなのよと思ったりしてしまう。飛沫防止のフェイスシールドとかアクリル板とかバンバン作ってジャブジャブ売れて、使いまくっているけど、そこに関しては地球温暖化や環境汚染という単語は存在しない。
外出自粛でネット通販が盛んになり、一つの小さな商品を購入するだけで、その梱包のための緩衝材がいっぱい。プチプチだったり発泡スチロールだったり。
気がつけば皮肉なことに、家から排出されるプラゴミの量は以前よりも多くなっている。

築地から豊洲への移転も、床下の土壌汚染をあれだけ問題にして、「安全」とか「安心」とかでの言葉遊び。ネズミが走り回って冷暖房設備のない不衛生な海鮮市場と、エアコン完備の衛生的な建物の床下の水の汚れ。今は誰も床下の水のことなんて忘れてしまっている。
マスクをしていない人を飛行機から下ろそうとする会社、隣に座りたくないという人、マスクなんて意地でもしたくない人の争い。こういうことも後になってみると笑い話になるのだろうか?。
炎天下にマスクしてジョギングする人、風通しの良い空いている公園でマスクをすることを強要する人、マスクなしで電車に乗った人を見るみんなの鋭い視線。なんだろう、今の日本に蔓延しているこの空気。
まるでハーメルンの笛吹男に導かれるネズミのように、みんなである方向に歩いている。みんなで渡れば怖くないという意識。
日本人を動かすにはこの言葉だけでOK。
「みんなやってますよ!」
自分で考えることをせずに、意思決定は誰かに任せる。そして、それが間違っていたら後から文句をいう。
そんな空気の中で穏やかに暮らしていくには、その空気に大きく逆らわずに、自分なりに小さな火の粉を振り払いつつ、少しでも楽に呼吸ができるように生きていくのがいい。
大きな声を出さず、大きなアクションもせず、自分の意見は外には出さず、人の意見には反対しない。
狭い空間では少し面倒でもその時だけマスクはして、外に出たらはずす。面倒でもアルコールが置いてあればちょっとゴシゴシってやってみる。
コロナ の話題になったら、極々一般論で話を濁す。怒らずキレず、専守防衛。自分の意見を押し付けず、相手の意見は聞き流す。
真実なんてどうでもいいのだ。科学的根拠があろうがなかろうが、マスコミが正義を決める。
見ず知らずの人と、マスクの効果について論争しても不毛だ。環境問題について論破しても恨みを買うだけだ。政治が悪いと叫んでもどうにもならない。
歳をとるとこういう「事なかれ主義」になっていく。
若い頃はどうだったのだろう?
自分が日本を変えていく!と思っていただろうか。今となってはそれさえ思い出せない。自分が変われば、隣の人が変わり、やがて身の回りが変わり、地域が変わり、国が変わり、世界が変わる。
そういう思想が好きだった時代もあった。
今は、自分が生きやすいように自分の環境を整えることに考えを回している。
「みんなやってますよ」
でも、自分はこれでいいです。これで満足していますから。
「もっと便利になりますよ」
「もっとお得になりますよ」という言葉にも動じなくなった。
「足るを知る」と言えば聞こえはいいが、今のままで十分。面倒なことはごめんだ、という気持ちが強くなったのかもしれない。
小さい文字の書類を見るのも辛くなった。あちこち手続きするのも面倒になった。電話の営業はみんな詐欺師に思えるようになった。報道は話半分で聞くようになった。衝撃映像もCGじゃないかと思うようになった。あらゆるものに期待しないようになった。
こんな大人になりたいわけじゃなかったのにな。
それでも、まだまだこれから。
これからは、人のいうことは気にしない。自分の生きたいように生きる。
そう思う気持ちも強い。
もう人生の全体像も見えてきた今だからこそ、やりたいことをやっておかないと「やっておけばよかった」と後悔の気持ちが残ってしまう。
死んでもこの世には念だけが残るという。
それを「残念」というらしい。
「ほら、そんなこと誰もやっていないよ!」と叱られた子供の頃。
今なら
「ほら、まだ誰もやっていないからやってごらん!」と言えるかもしれない。
そして、自分でやれるかもしれない。
剣岳は元気そうな20代のお姉さんとか単独でボロボロ滑落してニュースになってます、父親が片付けばこちらも片付いて問題なさそうなのでチョロっと行こうかな、世間のことは世間に任せとけばいいのでしょう…
Akiさん
剱岳でそんな悲しいニュースが・・・。自分の娘がと思うとなんとも親御さんの気持ちを察するに涙が出てしまいます。