「不易流行(ふえきりゅうこう)」:〘名〙 蕉風俳諧の理念の一つ。新しみを求めてたえず変化する流行性にこそ、永遠に変わることのない不易の本質があり、不易と流行とは根元において一つであるとし、それは風雅の誠に根ざすものだとする説。芭蕉自身が説いた例は見られず、去来・土芳・許六ら門人たちの俳論において展開された。
出典 精選版 日本国語大辞典
京都を訪れるたびにこの言葉を思い出す。
京都の街を歩いていて、毎週訪れても新しいものが店先に並び、それでいて1000年前から変わらずあるのではないかと思うような定番もある。
そのバランスが絶妙なのである。
老舗ほど新しいものを取り入れ、新規のお店が懐古的であったりすることも多い。京都の魅力はそう言ったところにある。
神社仏閣も、「昔と変わらないねぇ」と思わせつつ、実はかなり変わっていたりする。
昔のいいところを残しつつ、常に新しいものを取り入れては、古いものにメッキをかけていくというイメージがある。

京都へ行けば、古の日本に出会える気がするし、新しい日本にも触れられる気がする。
そして京都自身も、自分たちがどう思われているのか、そのみんなが思い描く「京都」を維持しつつも、それを微妙に裏切ることを考えてつつ常に新陳代謝している。
京都は、10年前の京都はすでにそこにはなく、1年前の京都もない。それこそ昨日の京都もすでに変化している。
きっと人間もそうなのであろう。月日の移り変わりとともに、古いものは剥げ落ち、新しいものが作られている。常に新しいものを取り入れて、その時の環境に合わせて変化していく。街もきっとそういう意味では生き物なのだ。
きっと意識もあり、ある規則のもとに生きていく生き物なのだ。
そう思うと、元気な街、元気のない街、生まれたての街、死にそうな街、魅力のある街ない街。人間と同じようなものに見えてくる。そうすれば住みたい街、住みたくない街、行ってみたい街、2度と行きたくない街、そんな相性というのも見えてくるかもしれない。
いろいろな単位での集合体は、それぞれの環境に合わせて変化していく。