日本のシステムを変えようと思っても、なかなか一朝一夕に変えられるもんじゃない。中学高校大学の生徒会や文化祭実行委員会、保護者になってからのPTA、そして自治会の集まりに参加してきても、その構図はどこでもほぼほぼ一緒だった。
目の前の相手を変えるのも無理なんだから、自分が変わればいいっていうけど、その自分を変えるのだってそう簡単にできるもんじゃない。
世の中すべてのものは急激な変化をしないように出来ている。変えようと思っても変えられないようになっている。変わらない時は、何をどうやっても変わらない。テコでも動かない。
それなのに、想定外の厄災が起こると、あれだけ変化を拒んできたものがあっさりと変わっていく。今までのあれはなんだったの?というくらいに。
前例がないから、今までの流れから行って無理がある、みんなの賛成を得にくい、強い反対が予想されるなんてことで変えられなかったものが、え?え?え?っと思っている間にガラリと変化していく。
つい先日まで頑なに「無理です」と言っていたものが、「状況が状況ですから」「非常時ですから」ということで、あれだけぶ厚かった壁が、幼子が障子紙を指でプスプスと開けていくように破られていく。
それを否定するわけじゃない。
そういうものなのだと理解することなのかもしれない。いつの時代も、世の中を変えたいと変革者が息巻くが、「オトナ」がそれに抵抗する。しかし、非常時には、その「オトナ」があっという間に変化してシステムを変貌させていく。
そういうシステムなのだろう。
そんなことを長いこと繰り返しながら、今のこの世の中も移り変わってきた。ほんの2000年くらいの世界史年表を俯瞰してみてもそんな歴史ばかり。
国と人体と比較は出来ないけど、ある面では似ているかな?

ある時は外傷によって、ある時はウイルスや細菌・微生物に侵入され、またある時は内面的なもので自壊・崩壊していく。
免疫系を働かせませんって宣言したって、ウイルスや細菌は侵入をやめてくれない。
そういうもんだと達観なんて出来ないけど、
いくつかの山を越えてみると、少しずつそんな大きな流れの一端を見た気がした。
もう人間やめようかと思っていても、「合格です」とか「あなたのことが好きです」とか、「あなたが必要です」という言葉ひとつであっさり復活してしまったりする。
寂しさや恐怖に怯えるただひとりの人をギュッと抱きしめてあげることで、紛争が解決出来たらいいのに。
「無明」という語句の意味を探していた時に出会った言葉、「闇は闇として存在するものではなく、それは単なる光の欠如である」。闇を闇として存在せしめてしまうのは、つまりこちら側ということ、一瞬の光でそれは消え去るが、その光に出会うまではそこに「存在」するものと思ってしまう。妄想も、正義も、憎悪も、期待も、夢も、一種の「闇」なんでしょう。・・・という理解が私にはできていますが、では私が闇に押しつぶされそうになることはないかといえば・・???
あかいみさん
「無明」は、仏教で最後のたどり着く場所「苦の根源」。その「苦の根源」も実体はないらしいし、その「苦の根源を断ち切る」ことさえも存在しないっていうことを、まだ私は頭で中でも理解できていないです。般若心経の「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」の部分を知っていても、悩みが消え去るところまでには到底たどりつけそうもないなぁ。義母が亡くなる直前数日間、天井を見上げ、指あそびしながらなんとも言えない優しい微笑みを浮かべていたのは、もしかしたらその域に達していたのかも知れないなって今になってそんな感じがするんだよね。
本題とはかけはなれますが、仙太郎の最中に目が・・・。
コロナ禍、銀座に行かないので、気になる気になる。
後ろにはお酒??
義父は羊羹をあてに、日本酒を飲んでいました。
しんちゃんママさん
さすがお目が高い! 次女が買ってきてくれた「仙太郎 ご存じ最中」です! 後ろにあるのは缶ビール。
>義父は羊羹をあてに、日本酒を飲んでいました。
わかります。あんこやチョコレートとお酒。私は大好きです。(^_^)