
人間の体っていうのは、お母さんのお腹の中にいる時は、体重の90%が水分らしい。子供ではおよそ70%、大人でもおよそ60%。
60兆個の細胞で出来ている。
その細胞は分子で出来ており、
連絡網では経絡というものを使ったりして電気が使われていたりする。
様々な調整にはホルモンという化学物質が作られ運ばれ使われる。
分子は、原子核とその周りを回る電子で構成されている。
その原子核と電子の間は結構スカスカでその間は、真空。
肉体って鍛えているとガッチガチに思えるが、考えるとただの分子の集まりで、しかもスッカスカでいつも流動しているもの。
その時の環境に応じて随時変化をし、形を変えるもの。
食べ過ぎれば太るし、食べないでいれば痩せる。
一定の決まった運動をすれば、その運動に都合の良い身体に変化するし、止めれば元に戻る。
毎日走れば、走るのに都合の良い身体になり、毎日泳いでいれば、泳ぐのに都合の良い身体に変わる。

食べて消化吸収して排泄し、
吸って交換して吐いて、
使って消耗して剥がれ落ちて、
悩んで体験して育っていく
人間の身体は、よくよく調べていくと、調べれば調べるほど謎ばかり。
わかったつもりになると、いつもしっぺ返しにあう。
わかったつもりでいじりすぎるとバランスを失う。

人間の体っていうのは、未知なる大宇宙。
たくさんの細菌が自分の中で暮らしていて、たくさんの細胞それぞれが頑張って自分の仕事をしている。
外壁が壊れれば修復部隊が出動し、ウイルスが侵入してきたら免疫部隊が排除に働く。
あらゆる場所で、あらゆる場面で、あらゆる役割のものが独自の働きをしているその一つの分子の集合体。それがこの体。
そして、こんな側面もある。
酒井雄哉大阿闍梨がおっしゃる。
「人の体っていうのは、心の持ちようで成り立っている。」
独自にそれぞれの細菌やら細胞やらが働いてくれているのに、
それらは自分の心の持ちようで成り立っているというのだ。
今度はその心を持つ「自分」とはなんなのか?ということになってしまう。
自分の体は、たくさんの人が暮らす一つの社会だとする。それぞれが自分の役割を果たすべく日夜頑張っている。みんなが働いて一つの社会が成り立っている。
そこでその体である社会が、心の持ちようで成り立たなくなったなら。その心とはどこにある何なのだろうか?
それは神とか仏とか創造主とかいうものなのだろうか?
それとも、それぞれの細菌や細胞たちのその時の状態や気分で「自分」が衝き動かされているのか。
考えれば考えるほどわからなくなる。
心が沈んでいる時は、体も丸まって、呼吸も浅く、皮膚もカサカサ、口の中もネバネバ。
しかし、ひとたびそこへびっくりするほど良い知らせが届けば、みるみるうちに心と体は劇的に変化を遂げるのだ。
いつも元気でいられるようにと思うが、そうは思わない方がいいのかもしれない。
良い時もあれば悪い時もある。
当たり前のことだが、そのように思っていた方がいい。
いつも揺れ動いていて、漂っていて、良いところにずっといられるわけではないのだろう。
毎日浮き沈みしている時もある。ずっと沈んでいる時もあれば、しばらく浮いたままの時もある。それが当たり前。
いつも明るく元気で暮らしてみたいという気持ちもわかるが、それを理想としてしまうと無理がある。人生、お金がある時、お金がない時、元気な時、元気がない時、健康な時、病気の時、若い時、歳を取った時、笑っている時、泣いている時。一つとして立ち止まっている時がない。何も進歩もなく立ち止まっていると思う時もあるかと思うが、振り返ってみればその時が一番重要であったと思うことだろう。

悪いことがいくつか続くこともある。
良いことが続くこともある。
でもずっとそれが続かないことも、ここまで生きてくるとわかってくる。
それがわかってくると、それが自分なりの「人生の取扱説明書」。
「そういうもんです」ということ
人の体も「そういうもんです」ということ。
長生きする人もいれば、早く死んじゃういる。
結構ずっと元気な人もいれば、そうでない人もいる。
ずっと悩んでいる人もいれば、全然悩んでいないように見える人もいる。
髪の毛が薄い人、濃い人。
歯が弱い人、強い人。
目がいい人、悪い人。
いろんな人がいる。
それでも残念ながら「そういうもんです」。
自分ではどうにもならないもの。自分の努力や継続すること、生まれ持ったもの、受け継いだもの、築き上げたものすべてを使ってもどうにもならないことがある。それでもダメな時、
だから、人は「祈る」のである。
特定の宗教の布教でないが、経験上そうなのだ。
何に祈るのかわからないが、その時に頼りたいものに祈るのだ。
だって、もう自分でやれること全部やって、もうやれることがなくなったら「祈る」しかなかったのだもの。
気がついたら祈ってた。手を合わせて涙を流してひたすら祈ってた。
でも、自分が自分であれば、祈ることで成り立つものがあるかもしれない。そう信じていた。
そして、自分は祈りのその先に、何が起ころうとその現実を受け入れる準備をしていたのだと思う。
自分の体は、自分の想いによって成り立っており、
自分の想いは、自分の体によって成り立っているのかもしれない。
そういうものなのかもしれない。