
義母がひとりで仏壇のお世話をしてきたが、
その義母が亡くなってからはこちらが受け継ぐことになった。元々妻の実家のことであるから、宗派も異なるしやり方が全くわからない。
お彼岸だとか盆や正月では、妻の記憶とネットで調べたり、住職に指摘されたりしてどうにかやっている。
「お茶碗の向きはこうや」
「仏さんにお供えするんやから向きを考えなあかんやろ」
「お花はこっち向きでええんや。見栄えが悪いやろ」
「冬はお上人に綿帽子を被せてあげないと寒いやろ!」
と住職に色々指摘される。
「なんだそれ?」と思いながらも、仏壇の引き出しから綿帽子と呼ばれる白い綿の四角いV字型のものを頭の上にのせる。
冬がそれを被せなければ寒いなら、夏はエアコンを入れなくちゃいけないのか?着ている服を薄着にしないといけないのか?(人形だからできないが)と思ったりするが、そこはどうでも良いらしい。
この宗派にとって、人間の魂というものはどこに存在しているという設定なのだろうか?と思ったりする。
そういう基本的な概念がわからないと、お世話するのが難しい。
いつもは仏壇にいるのか?仏壇の位牌の中にいるのか?お墓にあるのか?あの世とやらにいるのか?
仏壇を移動させる時には、魂を抜くための読経をしてもらってそこでも料金が発生する。位牌にいるなら別に構わないと思うのだが、仏壇という祭壇を移動するのに魂を抜くというのがよくわからない。
仏壇を通してあの世と交信しているのか?
そもそも法華経を読経することで、何がどう変わるのだろうか?
そう思ってお経も解説を読んで解読してみたが、確かに一つ一つとても深い意味があって素晴らしいものであった。しかし、それを読経したとして、それを亡くなった義父母が理解して、あの世で功徳を積めるものなのだろうか?
仏教の考え方は、とても論理的で科学的でわかりやすいものであることはもう知っての通りであるが、日本の仏教におけるいわゆる儀式的なもの、住職などが職業として成り立つように行われているのではないかとしか思えない儀式はあまりに非科学的なことが多く、いきなりオカルトになってしまって納得出来ないものも少なくない。
ご先祖があの世で苦しまないように、安らかに居られるようにという言葉でたくさんのことをやらされている気がする。
今は、住職に叱られないように、決まり事をこなしているような気がしてなんだか不満ばかり。亡くなった親を偲ぶという気持ちがどこか置いていかれているような気がしてならない。
そのあたりを理解して受け止められるようになるには、まだもう少し経験が必要なのだろうか?私にはまだよくわからない。
そう不満を言いつつも、お盆にはお供えの料理を4〜5種類作り、毎朝お茶とお膳2つ。お花も絶やさず、お菓子も果物もたくさんお供えし、読経もしている。
みんなそう思いながらも、そのようにお世話を続けているのだろうか?
自分の実の親じゃないからこう思ってしまうのだろうか?
そんな気持ちでお世話していちゃいけないと思いつつも、なんだか腑に落ちないことが多い。
なんかすごく大変そうですねぇ、お疲れ様です。
うちも今年はきゅうりとナスで作ってみました、
母親の3回忌もやらなかったしバチあたるかな・・・
Akiさん
義母がかなり丁寧にお世話されていたので、そこが基準になってしまっているんですね。そこから下げていくと「手抜き」しているようで心が痛むみたいです。こう言うのって正解がないから難しいです。