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「伊勢金比羅参宮日記」を含む歴史関係、日々の料理レシピ、乾癬について、山歩き、生活の知恵、5人の子育てなど、多岐にわたる個人ブログです。

伊勢金比羅参宮日記 歴史

伊勢金比羅参宮日記(後編) 栗原順庵

投稿日:2020年2月21日 更新日:

渋紙装丁の横型綴本:縦9cm×横20cm:和紙2つ折りを73枚綴じたもの。行書体で墨書きされている

 時は江戸時代末期(1850年)、上州伊勢崎藩御典医であった栗原順庵が42歳の厄年に群馬から利根川を下り、東海道を歩きお伊勢参りへ。
 続いて奈良から高野山、和歌山から四国へ渡り、金比羅参りを済ませ瀬戸内吉備から赤穂、姫路を通り大坂、京都へ帰路は中山道を通り再び群馬へ帰るまでの西遊記

 各地名所旧跡は勿論、当時の風俗まで記した貴重な旅日記を現代語訳にて記述したものであります。

江戸時代の旅の雰囲気をのんびりとお楽しみください。

これは後編です。前編はこちら。

  • 同行人:伊勢崎医師 時谷洞庵
  • 同行人:伊勢崎医師 小暮貞次
  • 同行人:伊勢崎医師 設楽栄庵
  • 僕  :2人 
  • 計   6人

嘉永三年(1850年)

2月22日(出発より25日目)出発・大和路へ

雨降る。五つ半時(午前9時)出発。

(出発の時、門前にものもらいがたくさん集まっている)まき銭用意すること。

 櫛田川手前あたりから雨が降ってきた。とても吹降りで難儀した。

 ここから六軒茶屋行き、はせ越え、伊賀越えの立て札があった。

 ここから大和路に入る。八太(はた)(現:三重県一志郡一志町伊勢八太)に泊まる。

2月23日(26日目)伊賀道中

(晴れ、雨を欠く)出発して、大の木、(一里半)二本木、(一里)垣内(がいと)を通り、ここ伊賀屋吉兵衛方にて昼飯を食べる。この家、はなはだ悪し。

 これより伊勢路、三十丁阿保、一里新田、二里夕張(名張)で、夕方に小竹屋で泊まった。良い宿である。

 今日、垣内から伊勢路の間、3里青山峠があった。(この間、馬を取った。150文なり)

 小竹屋までの間、良い宿屋がなくて、伊賀道中は人気甚だよろしからず。

 六軒から大和路に入っては、食事は美味しくない。

 また、茶屋に入ったら、すべて値段を聞いてから食べること。食後に値段を聞くと定価より少し高い値段を言って来る。まことにこの貪欲さは嫌らしいものだ。しかし、言語愛すべきなり。

 酒は多くて、甘くて、あまり良くない。

2月24日(27日目)長谷寺・三輪明神

晴れたり曇ったりではっきりしない天気である。

 カタカ(鹿高)、三本松、大野山辺、はい原(榛原)、このあたりはみんな山の中で、小さな坂道があり、いたって辺鄙(へんぴ)なところである。

 長谷観世音(長谷寺)を参詣する。

 桜と梅が同時に咲いていて、景色はよろしい。

 大和路は寒気が強く、この日は九條様、鷹司様がお役目で参籠(神社お寺に籠って祈願すること)のため鹵簿(天子の行列。鹵は行幸の時に先導に用いる大盾。簿は、行列の順序をしるす帳簿)厳なり。

 三ヲンド三輪明神(大神神社)参詣すること。三輪に到着して、竹田屋甚七方に宿泊する。この宿は良い宿であったが、今日は私が風邪で大変困った。今夜は早く寝ることにする。

2月25日(28日目)奈良

 曇天、時々晴れ。光風(雨後のさわやかな風)は甚だ寒く、寒中(小寒から大寒までの一番寒い期間)のようである。

 三輪を出発。丹波市、帯とけ(おびとけ)、奈良、このあたりは三輪を出てから山間とは言えども平坦である。奈良は見どころが88か所、古都懐旧(昔を思いしのぶこと)袖をしぼる(涙で濡れた袖をしぼる意味。泣く)ばかりである。古堂、名刹見どころ多く、春日野の鹿、明神の灯籠、猿沢の池の魚、その凄さは実に目を驚かす。

 この地に入ってからというもの、「ここより参詣なさい、なさい」と婦人宿引などが付きまとう。これに構わず、入り口から猿沢の池ぎわまで見回っていると、案内の人が早速見付けて来てくれる。88文の代金である。定値段である。必ず雇って順拝すること。偶々余一絶(一絶:ひとつの他とかけはなれてすぐれたもの)を得たり。

 属佛古宮猶侈富 (属と佛の間にレ点、侈と富の間にレ点)
 庭池魚躍飜文繍 (飜の下に2、繍の下に1)
 笠山新月老桜花
 穿眼風光都懐旧

 漢文(左上より右に読んで行きます)

 案内の者が、京都、大阪の宿を勧めてくるが、取り合ってはいけない。また、油煙墨(油、樹脂などを不完全燃焼させる時に生ずる黒く細かな炭素粉をニカワで固めて作った墨)を勧めてくる。それほど良いものではないので、好んで求めるほどのことではない。

 奈良はすべて格別かけ値なく、京大阪路は半分値にて早速まくるなり。心付くべし。

ここ猿沢の池あたりでは参詣する間、荷物を預けなさいと勧めてくる。これは大体、奈良山中持って歩くべきである。まず間違いはないだろうが、帰り際には宿屋まで引き込まれることになる。もっとも奈良で泊まるのであれば、まず宿屋に荷物を預けて、それから参詣すればよい。奈良で一泊してゆっくり観て廻るのも良い。

 ここから七在処(大和七在所)を廻って、吉野、高野まで出るには、1日半の道のりとなるため、七在処を廻らず、多武峯、吉野と廻れば三輪まで5里戻るだけで済む。七在処は格別見どころはないが、一度は廻った方が良いだろう。法花寺(法華寺)みんな宮家である。これは四都殿閣の跡である。西大寺、正大寺、菅原天神。(今日は幸いにも祭りのため人が多い)西の京、郡山泊まり。花内屋忠兵衛。

2月26日(29日目)法隆寺・當麻寺・

快晴、霜気多し。

 水泉法隆寺は大刹で見どころが多い。案内を頼むこと。48文くらいである。

 いにしえの清涼殿、紫宸殿などの遺殿がある。古色(古びた様子)を観ておくことだ。

 伽藍の中には神代の杉の扉があり、その扉を開く時に簫(しょう:中国の縦笛)の音を発する。妙なり。

 少し行くと、竜田明神がある。

 そこから、龍田川、三室山、竜田山がある。

 川は板の架け橋の上を渡る。

 また少し行くと、大和川舟渡りがある。そこから行く達磨寺には、とても小さい達磨の像があり、妙なり。

 このお堂の後ろに非石非銅犬の形がある。毎年大晦日の夜に吼えるという怪しい噂がある。

 この間に、染井寺(石光寺=染寺=染井寺)がある。桜の古木、梅の古木、愛すべきものあり。

 當麻寺(當麻寺)では曼陀羅の御開帳しており、誰でも120銅で見せてもらえる。この曼陀羅は後世のものである。本物であるか偽物であるか、他の宝物もみな後世のものである。

 大和の名刹や古跡は、すべてその古さを想い見ること。千年の歴史を持つものが多い。

 當麻寺で高田はどちらか聞いてから、出ずべし。このあたり吉野、高野道があり迷いやすい。気をつけること。

 ここから、八木(大和八木)、蘇我村(橿原市曽我町?)などを過ぎて、阿部に泊まる。宿はかどや安五郎であまり良い宿ではない。

2月27日(30日目)多武の峯・吉野

天気吉。

 阿部を出発して、50丁登って多武の峯へ行く。25日正、遷宮後であるのでとても華麗である。かつ、御山は険しい森である。七在処などの歌とは違う。

 ここから吉野までの四里はすべて山坂である。大和第一の難所であるが、多武峯は下りが多い。この道は平日は寂寞(せきばく:ひっそりしている)である。

 この時期、大峯行者が菩薩吉野において開帳。老若男女が絶えず行き交う。所々に茶店がある。

 吉野川舟渡、北峯上市、南岸は下市である。川上、妹山、脊山があり、よく、見える。

 吉野山桜花将に発するの節なり。御開帳であるので吉野は盛り上がりを見せている。

 大阪から芸子が来ており、見せ物などが多い。しかし、飲食、地を拂って無き処なり。普段の時が思いやられる。値段はもっぱら高値であり、この辺り茶漬、酒肴、宿泊費などまで、値段をちゃんと聞いた後に食べること。

 蔵王権現を拝礼する。弁慶力石(力釘?)。義経の馬蹄の跡、義経蹴破の旧跡など見ておくこと。(頼朝に追われ、義経、静御前、弁慶が一時隠れ住んでいた。)

 これより大峯開帳を拝礼する。

 ここから無田(吉野町大字六田)という処へ40丁。(平坦)下りて宿泊。小竹屋という宿屋。この宿、綺麗であってよろしい。しかし、あまりに大言を言ってしまい、御馳走されて、宿料1人前500文ずつ取られた。

 大山の開帳帰り
  ほら吹いて
   むだの旅籠を
    五百取らるる

2月28日(31日目)高野山

快晴、大暖気。

 無田(六田)を出発して、無田六条で弁当を食べる。このあたりはとても賑やかである。ここから30丁も行くと紀州(和歌山県)である。橋本、吉野川がある。舟は毎日若山(和歌山)へ出ている。

 橋本、加むろ(橋本市学文路)、共に賤妓(歌妓や娼妓を卑しんでいう語)がある。

 ここから加手村(河根村)に入る。ここから御山(高野山)まで150丁登って御坊(金剛峰寺)となる。いたって難所である。加手村中屋団次郎(河根村)に泊まる。良い宿屋である。

 この先1里行くと麓にかみや(神谷)というところがある。この村からは、夜かがり(かがり火)を使ってでも御坊(金剛峰寺)まで案内してくれる。この村は御坊の案内であれば、いつでも連れ立って御坊まで付いて行ってくれる。

 日暮れになってしまったら、大難儀である。加手村(河根村)に泊まること。

2月29日(32日目)金剛峰寺

 快晴。加手村(河根村)を出発してから登り坂ばかりで難所が多い。

 加みや(神谷)へ着くと、茶屋にて「お国元はどこですか?」と聞いてくる。これは坊(金剛峰寺)からの案内のつもりである。坊に到着したら案内させれば良い。坊に行かずに通り抜けならば国所は名乗らず、坊に行かないということを答えておく。

 坊に着けば、何分隙入り且つまた月拝日拝など勧められ、入り用も多い。御山に行ったなら、数珠屋で数珠などを買い求め、そこでは商人、宿、を尋ねてくる。ここで飲食すべし。暇いらずで良い。

 ここから表門を抜けて、花坂から麻生津「をうず」に出る。

 峠には2軒宿屋がある。そのうちの油屋利七郎に宿る女子供2人が踊りを踊ってくれて面白い。

 表門から多く下りである。麻生津下りで、吉野川下り、舟がある。若山(和歌山)まで着す由、高野山、七百軒これある由、七堂伽藍、七年前焼失(天保14年:1843年落雷による大火で伽藍全焼する)、いまだ半ならず、数珠屋多し。

 奥院には、今でも雪が残っている。無明橋(無妙橋、御廟橋)は玉川(御廟川)にかかり、長者万燈貧の一燈あり。

 紅葉九重厄除守、土砂など、奥院にて受けること。また買い求めた数珠を、奥院にて開眼すること。

3月朔(1)日(33日目)紀三井寺

 明け方から雨が降っている。朝8時に出発する。麻生津渡舟場まで下り坂のみである。ただし18丁の間は急であった。

 ここから若山(和歌山)までわずかな代金で、夜8時まで、毎日下りの舟が出る。いたって便が良い。ただし雨が降っている時は舟は出ない。それでも1艘買い切ってしまえば、雨天でも舟を出してくれる。

 ここから粉川寺(こかわでら)に参詣する。堂閣厳荘、町家繁昌、思いのほか奇麗なところである。ここから岩出の渡を渡って、八軒屋に出て直路がある。聞いてみることだ。この間、みな51里である。

 三葛村は塩場(塩浜と同じ。塩の産地)である。良いところである。しばらくして紀三井寺に到着。夜8時で雨はおさまらず、雨の中50丁ばかり歩いて大いに難儀した。藤屋孫太郎にて泊まる。あまり良い宿ではなかった。

 この辺は辺鄙(へんぴ)であり、食事、酒など、値段を聞いてから食べる事。

 紀三井寺は粉川に比べると少々小堂である。しかし、眺望はとても素晴らしい。和歌浦を眼下に見下ろす。このあたり暖気甚だしく、夕暮れになると蚊がたくさん出る。そのためよく寝付けなかった。

 また、蘆(ろ、あし)の形が、しの(篠:細くて群がり生える小さい竹)のようで、歳を経て枯れているようである。

 風俗など、大和路に比べると大いに下る。

3月2日(34日目)和歌山

 雨天、朝8時に観世音(紀三井寺)参詣。ここから和歌浦まで18丁ある。入り江を舟で渡る、1人前24文、一艘買い切りで184文なり。風雨に関わらず舟を出してくれる。和歌浦到着。

 行きは必ず案内の者が来てくれる。ここは案内を頼まなくても良い。舟が到着するところは、妹背山という。ここから武津島大明神(玉津島神社)、東照宮、望海樓(老舗の旅館:現在史跡が残る)などの他、見どころはない。

 ここ望海樓の下の岩石はみな木目がついている。これは古びた大木が石に変わったためであり、それで「木の国」と言う。その石を少し持ち帰る。

 町家があり、その町並みは和歌山へまっすぐ続いている。その間、松並木がある。残らず根上がりしていて(根上がりの松)、その根上がりの中、人が自由にくぐれる。実に変な感じだ。

 そこから若山(和歌山)ご城下に出る。名古屋に比べると狭い。このあたりミカンが安くてとても美味しい。食べてみる事だ。

 ここから吉野川を渡り、1、2村過ぎて、加太に到着する。舟場から加太(かだ)まで100丁ある。もっとも道は平坦である。この辺、沃野(よくや:地味の肥えた土地、耕作地)である。8つ半時(午後3時)加太到着。

 粟島様(加太淡島神社)祭礼にて屋台が出ている。其事の野鄙(やひ:いやしい、げびている、粗野で下品)見るべからず。

 夜になって雨があがる。加田魚屋節太郎という宿に泊まる。この土地、海魚自在なり。風味宜し。ただ煮方が甚だ悪い。酒は安い。

 今日は足痛でとても苦しんだ。

3月3日(35日目)和歌山から舟で四国へ

 快晴、朝、粟島様(加太淡島神社)に参詣。今日は例祭である。お宮は海辺に築出しており、御造営である。

 4つ半時(午前11時)出帆。水夫3人、舟30石入、乗合27人。この日清和(よく晴れておだやかなこと)にて、稀に見る良い天気であり、海上も穏やかであるが、鳴門近くでは波が荒く、舟は大いに動揺した。

 夜になり、5つ時(午後8時)に撫養(むや)へ到着する。

 この日、私は風邪をひいているところへ、空腹で炎天に照らされ、少し舟に酔ってしまったようで、難渋した。もっとも吐き気は一切なしとは言え、食事は一切出来兼ねる。乗合舟は、唄などにて苦痛はない。渡海というのはこのようなものだ。

 清和で穏やかであるのはとても稀である。だからこそ、その不快さは言ってはならない。また、わずか半日余りの船中であるが、とても退屈であり、とにかく塞ぎ込んでしまい、食事も進まない。

 穏やかな日でこれであるから、風濤(ふうとう:風と大波)の日であったなら、いかに大変か思いしってこくことだ。

 且つ、舟に乗る時は、まず酒を禁じ、食事も余り満腹にならないよう、ほどほどにして、気を気海丹田(臍下1寸半ほどのツボ)に収めて乗ること。また、わらじでも何でも、降りる時の用意に備えておくこと。煙草もあまり良くない。梅干しを20~30個用意しておき、且つ、瓢(ひさご)まで水を入れて用意しておくこと。大小便は乗る前に出しておくこと。

 ここまで運んで来てくれる舟を無理に出発させないこと。船頭に日和見を見極めてもらって大丈夫であるという事でなければ出発してはならない。もしここで風雨であったなら滞留すること。また、大阪から四国までは、乗ってはいけない。なかなか2~3日舟の中ではとても耐えられるものではない。

 大阪からなら、陸地を高砂まで歩いて、高砂から丸亀まで舟に乗ること。そうすれば、播州洋の難所を避けて、安穏である。

 船中で怪我をしてしまったら、そんなことは稀なことではあるが、偶々はえある由、懼る(おそる)べきなり。

 船路は加太から淡路島の南、無島(沼島:ぬしま)の北、鳴門の南を通って行く。海上13里、乗合1人300文で5文酒代として遣わす。

 舟の中で二絶句を得た。

 (漢詩が2つあるが、パソコンで表記出来ない文字ばかりなので略します。100尺もの大波が来た事、小さなクジラに出会ったことが書いてあります。)

3月4日(36日目)地蔵寺五百羅漢

 快晴、和風(おだやかな風)、撫養を出発して五百羅漢(地蔵寺:大正4年に500羅漢はほとんど焼失)へ参る。そこへ行く間の阿弥陀村というところに土御門院御陵がある。寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しいようす)としている。

 土御門院(つちみかどいん):承久の変で父の後鳥羽院が隠岐へ流されると、御子にあたる土御門院は自ら土佐へ移り、さらに阿波へ移った。板野郡土成町に土御門院の霊を祀った御所神社がある。

 五百羅漢は天下無双(他に並ぶものがない)、700体もあるとのこと。

 ここから裏門へかけ抜けて峠にかかる。30丁の登りであり、この峠は阿讃(阿波と讃岐)の境である。そこから清水というところに出る。そこで祖末な家で苦茶を売っている。一息つけただけであった。

 この辺りでは道をよくよく聞くこと。引田(ひけた:香川県大川郡引田)へ行くにはどう行くかと聞くこと。

 引田は港で良いところである。

 羅漢までは平地であった。そこからは山坂ばかりで、清水から八沢伝いで引田に出る。

 阿州讃州人は、気表強くして、内に信あり。風俗下品、言語は大いに蛮に入る。

 この辺では砂糖を作る。また甘藷(かんしょ:さつまいも)はとても安い。味はあまりよくない。寒暖はだいたい上武に同じである。

3月5日(37日目)高松

 朝5つ時(午前8時)から雨が降って来て、1日中降り続いた。

 引田を出発し、白鳥明神(白鳥神社)を参詣。日本武尊を祭る。鶴の門がる。そこから津田へ向かう。ここはよき処である。津田の取っ付きにある松原はとても綺麗であり、実に稀である。

 そこから厄ヶ峠(現:天野峠あるいは小方峠?)があり、志渡寺(86番志度寺)に出る。この寺は真言宗で能寺である。桃は枯れている、植継のためだ。

 そこから八栗、屋島と進もうと思っていたが、8つ頃(午後2時)になっても雨は止まない。まことに大峠で、宿屋もなく、八栗山(五剣山)を右に、屋島を向こうに見ながら直ちに高松城下に出た。この間の道すじはとてもよい。高低なく大往還(大きな街道)である。

 ご城下は広い。それほど繁華でもないが。古新町砂屋という家に泊まる。夕方になってやっと雨があがった。

 この辺の道のりは一切定まっておらず、とにかく長短がある。尤も1里50丁と言うが、この辺では40丁くらいである。讃州馬はとても良い。乗るべし。1里につき50文くらいから段々である。

 四国八十八ヶ所の巡礼の者の往来がとても多い。また所々に接待物が多く、行く人に施す。その品々を大八車で持ち歩き、空き家あるいは寺において振舞う。酒や食べ物から月代(さかやき)、湯風呂手拭い、萬金丹、はな紙、わらじの類いまで施してくれる。みなりっぱ(道者たちよるなり、道者をヘンロと呼ぶなり)四国巡拝残らず廻って35、6日かかるという。

 この辺、銭がとても少なく、まず通用しないのと同じである。2分より礼あり。便宜が良い。この辺、浜辺であるので魚が安い。

 妻児能執事 双親能自斟
 嚢中物尽外 一時不関心
 夕叩新知戸 朝穿未見林
 嚢中物尽外 一時不関心

 嚢中の光る阿弥陀は
 やや尽きて
 日々に聴き行く
 千手観音

3月6日(38日目)金比羅

雨天。高松を出発し、馬を取り瀧の宮(香川県綾歌郡綾南町大字滝宮)に着く。

 この間5里で平坦である。瀧の宮の「あわや重五郎」にて茶漬を食べる。この場所は菅公(菅原道真)の治めていたところの旧跡であり、天神の宮(滝宮天満宮)がある。大社である。瀧の宮(滝宮神社:牛頭天王社)は、牛頭天王を祀っており、側には滝がある。

 ここから金比羅まで2里。同じく平坦である。

 金比羅(金刀比羅宮)は不動愛染明王の類いである。秘仏でありご神体を知るものはない。

 松尾寺という真言宗のお寺の守護神として金比羅様を祀っていました。金比羅様とは元々薬師如来の十二神将の筆頭、宮比羅大将(クンビーラ)というワニの神様。現在では、金比羅宮では大物主神と崇徳天皇を祀っているということになっている。

 御本坊は象頭山金光院松尾寺で、真言宗九條様御引受三百三十石ご朱印がある。御領は3ヶ村ある。苗田村、榎井村、四条村である。10月10日は御祭礼。公儀より御使者が下る。男女13歳までのうち、斉戒沐浴(飲食、動作を慎んで、心身を清めるため、沐浴をする)して出る。これを頭人(とうにん)という。

 ここは食べるための道具が11日の夜にどこかへ消えてしまうという。不思議なことである。それと箸蔵大権現(はしかくしだいごんげん)とを附会(こじつけて)して、奥の院と称したため、箸蔵大権現は崇徳院(崇徳天皇)の霊を祭って1里ほど南の山中にある。

 松尾寺役人は300人ほどいて、みな扶持取り(米で給与された俸禄を受け取る者)である。

 金比羅は思いの他よいところである。妓婦あり。四国で一か所であるため、300人あまりいる。

 御山の中は桜でいっぱいである。そのうち欝金(ウッコン=欝金香ウッコンコウ、ウコンのように黄色のことか?現在のチューリップの意味もあり)の桜が半分である。

 お守りは1厘2文半、開帳6厘である。本開帳は12厘。まず御山に登る時、御本坊玄関御守処という額があるところで御守を受けて、その後、本社御番所へ願い開帳をうけること。即、金幣を出し戴せらるなり。

 御開帳は毎日七つ時(午後4時)だけである。

 下りて表箱、油紙を商う家がある。その場所で箱入りにすること。ある船中で身代わりになってくれて、不思議に命拾いしたということで、納めてある碇(イカリ)があった。一目見て由来を聞いてみるといい。

 堂塔など見どころが多い。案内にいろいろ聞いてみること。

3月7日(39日目)屏風ヶ浦善通寺

 曇天。4つ時(午前10時)から快晴。

 今朝、金比羅参詣済ませる。これより屏風ヶ浦善通寺を参詣。ここは弘法大師が生まれたところである。伽藍は焼失。

 そこから丸亀まで四つ時(午前10時)に到着。八島屋で食事をした。この家から下村(倉敷市児島下の町)へ出帆。清和の天気であったが、1里あまり乗り出したところで、風が悪くなり大難儀になってしまい、夜になりしばらく4里ほど行き、余島(与島)という島に到着し、そこへ1泊する。誠に飢えを凌ぐだけであり、言葉ではとても表せない次第であった。余島には80軒ほどの家がある。家の作りは宜しく、天領(幕府直轄地:織田信長は、塩飽水軍680人を人名に取り立てて、塩飽七島を天領として1500石の扶持を与えた)である。

3月8日(40日目)吉備津宮内

 快晴、5つ時(午前8時)出船。良い風が吹き、4つ時(午前10時)下村着船。

 下村の花屋菊兵衛という家で酒肴を食べて、瑜伽山を目指す。

 ここから30丁の登り(格別難所はない)、途中の百姓家は皆小倉を商うための物置きがある。随分と安い。安心して買うこと。

 ここから瑜伽大権現、ここは霊地である。門前に茶店が多い。

 ここから半道余り下りで吉備津宮まで六里の間、平坦である。2里半ほど行く。

 あまき(倉敷市藤戸町天城)1里半早島(畳表出来るなり)、半里又ハセ(庭瀬)どちらも良いところである。

 吉備津宮内というところは妓婦があり良いところである。夕刻に到着。

 樽清という家に宿泊する。あまり良い宿ではない。

 ここの宿場はみな宿屋に妓婦がいる。妓婦を買わなければ、どの家でもあまり構ってくれなくなる。

3月9日(41日目)岡山

 快晴、出発して吉備津宮(吉備津神社)へ参詣。そこから岡山の御城下へ出る。この間2里、とても良いところである。賑やかさは名古屋に次ぐ。

 そこから藤井まで2里、ひと市(岡山市一日市)まで2里、かがと(備前市香登)1里の距離である。

 そして印部(備前市伊部)に出る。ここは備前焼物を商う。形状種々あり、値段は至って安い。

 そこから8丁行って片上(備前市片上)である。そこの角の夷屋という宿屋に泊まる。良い宿屋である。

 歩行よろしく、印部焼というのは、酒を入れるに限る。この器の凄いところは酒の味が変わらないところである。外細工ものはあまり良くない。値段はかけ値が多く、大体半値であれば売ってくれる。心得ておくこと。たくさん買って土産物にするのも良い。しかし、何分江戸廻りはとても不便らしく、もしたくさん買うのであれば、しっかり商家に聞いておくことだ。船で送ってもらえれば土産にしてもいいだろう。(角壱本徳利224文、同六合徳利124文位也)

3月10日(42日目)赤穂

 快晴。片上から赤穂へ船に乗る。この間海上を6里、一艘10人乗り、2朱くらいから650文くらいである。屋根船は2朱と200文くらいである。

 赤穂は塩畑が多い。町並みは宜しからず。花岳寺、義士(赤穂浪士)の木像、宝物など開帳あり、義士の遺墨(故人の書)が種々石摺(いしずり:石碑等の文字を紙にすり取ること)にして、この寺より出している。

 今日は真筆を見たが、やはり石摺が欲しくなり申し入れしたが、摺りものはなく残念であった。大石の書状は買っておくこと。

 ここで茶漬けを食べて片島を過ぎて、正しゅう(兵庫県揖保川町正条)に7つ半時(午後5時)泊まり。丸屋利左衛門、良い家であった。

 赤穂からここまで4里ほどである。小さな峠があった他は平坦であった。

 片上から赤穂へ船で廻った。暇であったが、陸を行っても大半同じである。陸は道が悪いところが多い。船で行くのが良い。この舟は大海と違って、入り江であるので、川舟と同様で足が休まって良い。

3月11日(43日目)姫路

 晴れたり雨が降ったりではっきりしない天気。昼頃は晴れ、7つ半頃(午後5時)から雨。

 正条を出発し、斑鳩(いかるが:兵庫県太子町)姫路に出る。姫路の御城下は良いところである。岡山に比べると下る。御城天守閣は結構である。草細工問屋が多い。中でも中二階町の立花屋庄八郎方がよろしい。この家は掛け値なし。1匁のものであっても、ようやく45厘まけてくれるほどである。(正札付きが多い)。

 ここから、豆崎、市川、本海道を右に入る。細道であり曾根天満宮松がある。手植え松(菅原道真公お手植え)、根と幹が僅かに残る。植え継の松が茂っている。連取の松には、2~3?足りない。

 そこから20丁ほど行くと、石の宝殿が山間にある。3間4方2丈ほどの切り石が水中に浮んでいるように見える。絶妙である。

 そこから高砂へ出る。一里ほどである。高砂は思いの外良いところである。町端に御米蔵(池田輝政が城主の時に伏見から米蔵を移し百間蔵を作る)がある。50間あまりのものが2つ見える。

 宿は、津りや伊七郎である。この宿はとても大家であり、賄い(まかない)もよろしい。離れ座敷、3階建てで部屋数70あまり、召使40~50人ほど。今夜は200人程宿泊しているようである。2階、3階共に雪隠(便所)がある。

 町の端に、第3番札所の十輪寺の相生の松(相生の松は高砂神社にある)が庭にある。

 赤松、黒松が一根で両幹であり不思議である。

 高砂の社は大社。松に相対して小社あり。即厨姥の社である。

3月12日(44日目)明石

 雨天。日の出と共に高砂を出発する。高砂の町外れに川(加古川)がある。石で堤防を築いてあり、その上を通る。

 そこから細道を12丁行くと、住吉の社(尾上神社)に到着する。庭前に尾上の鐘がある。古色名品絶妙。実に天下無双というべし。相生の松は、古木は現在枯れてしまい、社の様堂中にみすの内にある。現存するものは、3代目の植え継ぎである。枝葉は繁茂で、高砂に比べると男女葉が交ざっているなど、妙というべし。厨姥の図を寺から出している。

 そこから、別府住吉の社がある。庭前には手枕の松がある。これもまた妙である。そこから本社住吉四社の明神がある。相の松がある。???は左甚五郎作であると言い伝えられていて、古旧みるべしというが、信用しがたい。

 そこから二子村(2里)、長池(1里)、大久保(2里)。ここで昼食を食べて、明石に到着した。ご城下はとても良いところである。

 御廓(城を取り囲むかこい)を離れて少し行き左に入ると、人丸の社(柿本神社:柿本人麻呂を祀る)がある。社前にはめずらしい枝の桜がある。八房の梅がある。これは寺(月照寺)の庭にある。大木であり船の形に作ってある。これは古木であり、大石内蔵助の介添、間瀬久太夫が、心願で植えたという。その他にも宝物あり、開帳料は100文である。人数をまとめて見ると良い。

 そこから山を下りて人家の間に忠度(一の谷で破れた平家の名将平忠度)の塚がある。立ち寄って見ること。

 そこのすぐ下の往還は大くら谷(大蔵谷)駅である。

 まだ日は高いが、雨天難儀のため、橋本屋久左衛門という家に宿泊することにする。良い宿屋である。明石浦は人丸社前から南海を望むところをいう。舟が絶え間なく往来している。

3月13日(45日目)神戸

 朝曇、5つ半時(午前9時)から快晴となる。大蔵谷を出発(明石の内なり)し舞子浜に出る。一般的に40~50丁の内を言うが、ここは、北は山続きであり、一の谷、二の谷、鉄樗峯(鉄拐山)などである。この間には界川がある。細き流れである。播州と摂津との境である。

 また、敦盛の石塔(敦盛塚)が道の側にある。香花が絶えず捧げられている。その前には2軒ほど敦盛蕎麦を売る家がある。その呼び込みの言葉が古く同じき由、おかしきものなり。

 この碑は御影石で作られており、即三太六の作であると言い伝えられている。ここから東に一里ほど行ったところにみかげ村がある。即三太六が住んでいたところであったらしい。

 垂水村(神戸市垂水区五色山)は仲哀天皇の御陵(現:五色塚古墳。別名:千壷古墳)の千壷があると言うが道を急いでいたので見ずじまいだった。

 蕎麦屋あたりから案内の子供が現れる。ただし100文くらいと言う。32文くらいまでまけさせた。須磨寺まで案内してもらった。この者必ず頼むこと。

 須磨寺には敦盛の宝物(青葉の笛)がある。開帳は10人まで100文。そこから兵庫に至る。

 ここは至って繁華の土地で媼(ひめ・おう{漢字は年老いた女の意味であるが・・}ひめとフリガナあり)あり。飲食の値段も安くて味も良く、兵庫築島というところは他にはなく、即ちこの町内を惣して言うという。築島寺通りから3丁ほど南へよりあり。松王小侍(平清盛が兵庫築島造営にあたっての人柱伝説の人:築島寺:現在;来迎寺)の墓がある。敦盛の塔と同じ。他は見どころはない。

 そこから神戸村湊川に楠木正成の墓がある。左へ少しより欠抜けなり。石碑は水戸黄公建て給う処、後に正成42歳の木像がある。名工である。六文であったので後へまわした。

 そこから、生田村、生田の社(生田神社)がある。庭前に梶原鎌井戸(梶原源太景李)、箙(えびら)の梅がある。古木のままである。

 ここから摩耶山。布引瀧への道がある。そこから住吉の社(本住吉神社)、住吉川、あしや川がある。西宮に到着。とうじや徳兵衛宅に宿泊する。戎社(西宮戎神社)は大社である。町の上の入り口にある。

3月14日(46日目)大阪

 晴天、風あり。西宮を出発して尼ヶ崎を過ぎ、大阪に到着する。4つ半時(午前11時)である。長堀平野屋佐吉に至る。

 月代(さかやき)いだし、仕度を直して案内を頼み、斉藤町の篠崎長左衛門、梶木町の後藤春蔵(大阪の儒学者)、淡路町の御料ずしの西の廣瀬謙吉を尋ね、いずれも面会談話寛々(のんびりした・くつろいだ)。

 そこから、伏見町の小西という唐物屋でいろいろと買物をして夕方に帰宅し、食後に新町夜見世(遊郭)に一見にいく。道すがら草加(草加せんべい???)を見る。新町の松屋という店に入り、翌朝帰宅。新町で夜見世を張るところは、代金1歩で3厘付きである。女郎が三味線を引く。

 九軒見世というところは、太夫の遊びで一晩で一両余りもかかる。この土地ではロウソク代はまた別に取る。テンジンと申す者は太夫の次で宜しい。代金は30厘、一人前入用5厘の他にロウソク代などかかる。

 ただこの地は名代がなく、一度出れば外へ出でざるなり。また、馴染金もいらない。

3月15日(47日目)住吉大社・四天王寺

 曇天、九つ半時(午後1時)より天気。

 この日、境(堺)に行く。妙国寺の蘇鉄を一見。この辺は鍛冶屋が多い。どの鍛冶屋もみな本家、本家と申す。刃物は一切きれず、決して買ってはいけない。

 途中よりいろいろと這●●に勧めてくる人が出るが、決して取り合ってはいけない。

 住吉四処明神(住吉大社)は大社であった。参詣する。そこから茶臼山麓に一心寺があり、石塔に討ち死にした人たちの姓名があった、分明ならず。

 そこから天王寺(四天王寺)を参詣。すこぶる大伽藍である。先年(1801年雷火にて)焼失してしまった際に、淡路屋某なるもの(錦袋町年寄の淡路屋太郎兵衛によって1813年再建)一人の寄進によって建立したという五重塔がある。至って高し。16文で第1番まで登らせてくれる。大阪の町中が一目下なり。登るべし。

 それから帰宅。伏見丁小西に行き、みなみな求めものの世話をして、求め遣わす。黒羅紗(クロラシャ:羅紗{羊毛で地の厚く密な毛織物})一表金2両1歩なり。日暮れて帰る。

 私は昨夜から風邪で声が一切出ず、直ちに家に引き込み安臥(楽な姿勢で寝ること)した。

 貞(同行人:小暮貞次)は新町に走る。玉章(手紙、使者、たまずさ)しばしば来る。

3月16日(48日目)大阪天満宮・大阪城跡

 曇天、御城や町内を見学。

 天満天神(大阪天満宮)に参詣する。大社なり。団十郎親子の額がある。花も実も木毎に薫る自在かな自筆なり。

 そこから饅頭虎屋に寄り、饅頭を食べる。実に3郡第一の饅頭屋とあって目を驚かすばかりである。焚木(薪)はイス(柞:イスノキ:マンサク科の常緑高木)を焚くので、軒下に積置いてある。

 そこから鴻の池(大坂の豪商)など見廻り、南門跡、四つ橋、新町に出る。九軒見世側である。

 中程に吉田屋喜左衛門宅がある。今に夕きりの衣服がある。片側少し堤がある。桜の植え込みがあった。入口、出口両方に碑がある。
 片方には、

「だまされて来て誠なり神さくら」

 加賀千代(俳人)なり。

 もう片方には

「春の夜は桜に明けてしまいけり」

 はせをなり。

 その辺りから雨が降り出し、新町の妓家で傘を借りて帰る。風邪は少し回復したようだ。

3月17日(49日目)道頓堀から舟で京へ

 曇天、平佐出発して道頓堀から乗船する。ただし180文。京都まで乗っても同じ値段である。平佐から弁当が出る。おむすびであった。

 そこから川上へ50丁、道を7里行って橋本(三川合流部)に上る。夕刻に及ぶ。

 加とやと申す家に一泊する。

3月18日(50日目)宇治平等院

 雨天、出発して岩清水八幡宮へ参詣する。そこから宇治へ至る。茶飯を食べて、そこから平等院へ行く。宝物開帳、古色見ておくこと。(源)頼政の墓、高倉院の古殿、扇の芝鎧掛の松など一見。

 そこから黄檗山萬福寺一見、唐造作、見るべきものなり。

 伏見に廻り、藤の森天王稲荷社(伏見稲荷大社)、東福寺など雨であったので寄らなかった。

伏見から京まで町続き、但し2里半、夕刻3条通り大榎東、越後屋五郎兵衛宅に着。

3月19日(51日目)京都

 曇天、聖護院村に行く。中島文吉(中島棕隠《そういん》儒学者)、梁川新十郎(梁緯:詩人)、貫名泰次郎(貫名苞:貫名海屋:儒者)相訪う。貫名は病気にて逢わず。他はみな一見寛話。

 そこから四条通り高倉西へ入る。南側にて梅辻春樵(日吉神社神官の子:漢詩人)を訪ぬる、同じく面会。

 そして、牧氏を尋ねて所々を歩いてみたが、判らず空しく帰る。

3月20日(52日目)京都東山

 晴天、五つ頃(午前8時)池田直記君来る。五つ半時(午前9時)、正兵衛に案内してもらい本能寺から御所へと一見した。

 そこから三本木に出て東山に移り、吉田に至る。ここ金雲山光明寺には法然上人腰かけ石(大原の勝林院にあるが光明寺にあるかどうか?)がある。知恩院の座敷を拝見、南禅寺門前の丹後屋にて茶漬け食す。今は甚だ令落(零落:さびれている)。

 ここから祇園社清水観世音参詣。音羽瀧一見。そこから大仏(方広寺:大仏現存せず)、三十三間堂、阜塚(耳塚)あり。

 そこから東門跡に出て帰宅。

 知恩院金屏風などの拝礼には5~6人で200文ずつで、榎雀(抜雀)、立戻の鷺(サギ)などあるが、信用すべからず。

 九起(北村九起)を尋ねる。皆小庵である。清水焼物多し。

 知恩院本堂の屋根に傘あり。由緒(忘れ傘:本堂正面東よりの屋根のひさしにあり、左甚五郎が魔よけのために置いたと言われている)のあるものなので一見すべし。

 今夜風邪気なので早く寝る。

3月21日(53日目)大徳寺・壬生・東寺

天気吉、早朝黒門へ。

 誓願寺の福井丹波守様(福井楓亭の長子(榕亭):医の宗家)を訪ねる。昨年5月中近江守(丹波守の長子:医師:従四位)が亡くなり、子息は21歳であるという。

 そこから帰りかけ途中に連中に合う。雲林院に行く。名前だけで見どころはない。

 大徳寺座敷拝見、妙なり。ただし400文。

 金閣寺、北野天神(北野天満宮)、壬生寺、但し壬生踊り(壬生狂言)あり一見。

 そこから東寺大師様参詣。人多し。そして島原(日本で初めての公許の花街)一見。今日は一年一日のもん日であり、その賑わいは言語同断なり。

 そこから伏見稲荷の御旅処(神社の祭礼に神輿が本宮から渡御して仮にとどまるところ:おたびどころ)に至る。御輿5つあり。五穀を表しているということを聞いた。

 西本願寺参詣した後に帰宅。

 三ヶ津、花に見立候発句

 (口ずさみ)

 戯に志るす

   吉原 杜若

 水ぎわが、もしよふ、ざます杜若。

   新町 牡丹

 仰山に、開きておます、牡丹かな。

   島原 桜

 此艶は、外にゃありゃせん、八重桜

3月22日(54日目)牧善助に会う

 早朝、聖護院村に行く。そこから両替町二条上りのところの牧善助(儒家)を尋ねる。そこから帰宅。

 清水に行き磁器を求める。

3月23日(55日目)銭屋萬兵衛に会う

天気吉、新烏丸の池田氏を訪ねる。そこから梅辻あわせて梅室を訪ねる。

 寺町通りで出て買物。銭屋萬兵衛に逢う。

 夕刻、牧氏に行く。今夜、池田伊織来る。

3月24日(56日目)八瀬より叡山延暦寺経て大津三井寺へ

 天気吉、少々曇る。今日は出発、比叡山越を心掛ける。

 下加茂から八瀬の里へ向かう。そこから比叡山の麓、八瀬の里に3軒ほど茶屋がある。ここでは兎も角も食事をして、案内を頼むこと。山中では道を聞ける人もなく、また飲食もない。また、わらじを用意しておくこと。

 叡山(延暦寺)は甚だ大廃しており衰いている。しかしながら大伽藍である。金の双林塔がある。

 伝教大師の中門を過ぎて、山王権現(日吉大社)に至る。34~35丁の急な上り坂である。山王に老猿あり。そこから坂本に出て唐崎に至る。古松が湖水に臨み妙なり。良い茶屋あり。

 そこから三井寺に至り、大津に宿泊する。三井寺の鐘(三井の晩鐘)は奇妙なり。この辺りの湖魚は妙なり。値段をよく聞いて食べること。

3月25日(57日目)大津石山寺・瀬田の唐橋

 5つ時(午前8時)出発し、大津宿はつねより湖上舟を取り、膳所城脇を舟行する。

 そこから石山寺に到着した。ちょうど御開帳であり参詣が多かった。紫式部の源氏の間が今なお残っている。源氏物語、大般若経は宝蔵に入置き見ることは出来なかった。境内は絶景である。茶店にて源五郎鮒さしみにつくり食べる。そこから陸行、勢田の橋(瀬田の唐橋)を渡り草津に至る。(ここで義仲寺に寄れなくて残念であった)

 草津守山(守山市)、武佐(近江八幡市武佐町)を過ぎた。この間に鏡山がある。武佐茶屋文平に宿泊する。よろし。

3月26日(58日目)多賀

 晴天、早晨(そうしん:明け方)に起き食事をして出発する。

 老蘇(おいそ)の森、愛知川、この辺りから高宮までの間、麻の織物を商う。即ち高宮と称するものなり。至って掛け値あり。心得ておくべし。半値だったら売ってくれる。また、藤細工もの多し。これも掛け値多し。

 ゑち川(愛知川)宿はずれから多賀大明神(多賀大社)の鳥居がある。参詣すべし。そこから鳥居本へ駆抜け野道である。鳥居本、神教丸商う家が多い。

 そこから番場へ。その間に摺針峠あり。茶屋にて餅を商う。湖水の見晴しよろしく、そこから醒井、柏原と行き、柏原で伊吹山を弓手(左手)に見る。この宿では艾(もぐさ)を商う家が多い。銭屋という家に泊まる。

3月27日(59日目)関ヶ原

 天気吉、暖気、早晨に出発し少し行って、美濃と近江の寝物語の家がある。縁起を売る。

 そこから少々行き、車返しの坂がある。今須峠。

 今須を越えて、常磐御前(源義朝の正妻:頼朝義経の母、平清盛の愛妾)の石塔があったが見られず。左の方に城跡がある。

 また小さな峠がある。大関村、不破の関跡あり。

 そこから関ヶ原宿に至る。この辺りで養老酒を売る家多し。味わい吉、垂井宿を過ぎて、熊坂物見の松、青野が原あり。圓顔寺(円興寺)、義朝と義平の石塔あり。見なかった。

 赤坂美江寺を過ぎて、合渡(神戸町)に泊まる。

3月28日(60日目)墨俣

 合渡を出発して、肥前公(肥前佐賀藩主鍋島直正)が加納御泊ということで途中拝礼する。鹵簿(ろぼ:天子の行列)なし。

 雨止まず。郷戸の渡、すのまた(墨俣)川舟渡、鵜沼、鵜遣い多し。鵜沼、太田(美濃太田)の間には、木曽川舟渡があり、渡舟場からみたけ宿までの間の弓手(左手)には峨々(がが:山の高く険しいさま)たる巌石(岩石)、目手(右手)には木曽川の流れがある。絶景なり。ただ恨むらくは(うらむらくは:残念なことに)、雨中で遠望出来なかった。岩穴に岩屋の観音あり。

 みたけ(御嵩の伏見宿)泊まり。大阪屋に宿す。

3月29日(61日目)大久手

 朝霧、4つ半時(午前11時)には晴れる。ふしみ(伏見)を出発し、みたけ(御嵩)、細久手、大久手、大井、中津川に至り泊まる。田丸屋に泊まる。

 この間、12里残らず山の中ばかりで、景色が良かった。細久手、大久手の間には烏帽子岩、母衣岩などが道の側にあった。

 大井から大久手までの間は13の峠があった。もっとも格別難所でもなかった。

 大井から大久手の間に西行の塚がある。その間から伊勢参宮道あり。

3月30日(62日目)木曽路

 天気吉、中津川から落合へ。そこから馬込宿の間に十石村がある。十石峠という。この峠は美濃と信濃との境である。

 そこから馬籠峠を越し、妻籠に至る。このあたりから馬の子をとる家が多い。12月に生まれたため7日間だけ馬屋におり、そこから山野に出して親子共に放し置く。

 昨日から絶え間なく木曽川の谷間を行く。山の中では杜鵑(とけん:杜鵑は『ほととぎす』の意味。つつじの一種でほととぎすが鳴く頃に花を咲かせる。さつき)、花山吹、藤の花などが盛りである。

 そこから、みとの、野尻を越えて須原に至り、もめん屋に泊まる。この辺りみな山中である。絶景多し。

4月朔日(63日目)寝覚の床・木曽福島

 天気吉、今朝寒気強し。

 須原宿を出発し上ヶ松の間に小野の瀧がある。道の側なり。

 そこから寝覚村に至り、寝覚山臨泉寺(臨川寺)と申すあり。浦島太郎の旧跡。寺の中から谷川を見下ろすと風景よく尾州侯(徳川慶勝)手植の松がある。弁天あり。寺の中の案内料はひとり5文ずつである。この村蕎麦の物あり。

 そこから上ヶ松宿を離れて木曾の架け橋がある。双方から石垣を畳み上げて作ってある。このあたりもみな山中であるが平地である。馬の子が多い。終日蘇水の側を行く。

 そこから福島宿、良いところである。番所(関所)がある。笠かむりものを取る。杖を持つ人は、つかずに引き下げ通る。但し届けには及ばず。

 このあたりから駒ヶ岳が見える。夏も雪がある。

 宮の腰村、お六くしが名物で、家々で売っている。薮原も櫛を商う。事前宿に同じ。

 これから鳥井峠、1里半、半道登りで1里の下り。奈良宿徳利屋に宿す。

 昨日から私は矢音す(意味不明:矢には糞の意味があり、下痢の意味か?)。ただしもっぱら気分に障りはないが、時谷は不快なようだ。

 このあたりでは、桜、梨子、山吹、杜鵑花、一時に開くなり。

4月2日(64日目)塩尻

 天気吉、朝夕寒く、奈良井宿を出発して贄川(にえがわ)に至り宿端れに御番所あり。子細なし。

 そこから本山洗馬(せば)に至り、洗馬町の下から善光寺通りがある。ここで離盃を汲み、時谷、小暮と別れる。

 そこから郷原に出る。村井を過ぎて松本に至る。松本は案外の繁栄の地であり驚き入る。

 そこから岡田宿に至り泊まる。大黒屋嘉介。良い宿なり。風邪まだ退かず。

4月3日(65日目)松本から長野へ

 天気吉、暖気風少しあり。

 岡田宿を出発して、少し行き仇坂峠あり。峯まで1里8丁、茶屋あり。

 そこから苅屋原宿会田たち峠(苅谷原宿・会田・立峠)あり。難所である。

 そこから青柳宿で茶漬。

 少々行きて石の切通あり。長さ十五間、幅1丈1尺、高さ1丈5~6尺、文化6年(1809年)4月切通とある。

 そこから尾見宿に至る。この宿端から姥捨山へ行く道がある。1本松と聞き行く。細道で難所である。姥捨まで2里半余りなり。姥捨山は放光院長楽寺という小寺に、俗人夫婦で寺子屋をやりながら住んでいる。前に俳諧堂あり。観音堂あり。田毎見下ろし絶景なり。

 おもしろや満ればかくる月影に

  下を見よとの姥捨の山

         東陽

 そこから八幡宮(武水別神社)参詣。ここから14~15丁で稲荷山に至る。ここは先年、地震の上出火し、普請は荒々出来の良いところである。

 丸屋平左衛門泊まり。

4月4日(66日目)善光寺

 稲荷山出発、天気吉。暖気薄曇りを催す。

 これから篠ノ井に行く。ここは江戸道の追分(分かれ道)。ここの宿屋に荷物を預け置き参詣する。ただしここまでは再び戻って来る。もっとも戸隠山へ参詣の人は荷物を持参すること。

 丹波島町はずれ犀川の流れがある。舟渡。ただし、大河であり四瀬になっており、みな大河である。綱を張り越して行く。この辺りはみな地震の普請が未だに完成していないところが多い。

 そこから善光寺町並みであり、良いところである。御堂結構なり。至って古し。石塔多し。みな地震(1847年善光寺地震)にて打ち破れ、諸坊は普請未だ成らず。日々参詣多し。茶店にて茶漬けを食し、そこから篠ノ井に立戻る。ここでは氷雪を商う者多し。多食すべからず。

 ここから追分を過ぎて、千曲川を渡り、矢代に出て、上下戸倉を過ぎる。この辺りは真田ひもが名物であり、家々にて商う。値段は安い。

 そこから坂木(長野県埴科郡坂城町)に着泊まり。し屋与惣衛門。

4月5日(67日目)上田・小諸・追分へ

 天気、坂木を出発し、上田の城下を過ぎて、海野、田中、小諸を過ぎる。この辺りは上田縞(うえだじま)が名産である。かつ、木綿織物が安い。追分に至る。この辺り、山の間であって坂はない。平坦である。

 追分越後屋伝兵衛泊まり。良い家である。

4月6日(68日目)碓氷峠・横川関所・高崎着

 天気吉、沓掛、軽井沢までを三宿と言う。賤妓多し、遊ぶべからず。

 これから碓井峠にかかる。この峠は、下りばかりで、登り18丁、下り2里8丁である。今日は薄雲を催す。

 坂本に出て中食。そこから横川の御関所にかかる。この御関所は下りであれば届けなくても良い、ずっと通りて苦しからず。

 そこから松井田、安中、板鼻、高崎に夕刻到着。大黒屋九兵衛に泊まる。宿悪し。

4月7日(69日目)目出度く帰宅

 天気吉、高崎でいろいろ買物などをしてから出発。倉ヶ野、玉村と過ぎる。玉村貞視を尋ねて、そこから下之宮に出て、そこから人を走らせ、しばらく休息し、連取天神(伊勢崎市連取町菅原神社)に至り、酒肴を田中村から相持参り迎いの者を待居。

 町内その他みなみな来る。この日、朝曇り少々雨気があり。4つ半時(午前11時)頃から快晴。みなみな打ち連れ、目出度く帰宅。

 この行正月28日出発して、今日まで惣て69日なり。

伊勢金比羅参宮日記(持ち物編)へと続きます。

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