今ここから

「伊勢金比羅参宮日記」を含む歴史関係、日々の料理レシピ、乾癬について、山歩き、生活の知恵、5人の子育てなど、多岐にわたる個人ブログです。

伊勢金比羅参宮日記 歴史

伊勢金比羅参宮日記(前編) 栗原順庵

投稿日:2020年2月21日 更新日:

渋紙装丁の横型綴本:縦9cm×横20cm:和紙2つ折りを73枚綴じたもの。行書体で墨書きされている

 時は江戸時代末期(1850年)、上州伊勢崎藩御典医であった栗原順庵が42歳の厄年に群馬から利根川を下り、東海道を歩きお伊勢参りへ。
 続いて奈良から高野山、和歌山から四国へ渡り、金比羅参りを済ませ瀬戸内吉備から赤穂、姫路を通り大坂、京都へ帰路は中山道を通り再び群馬へ帰るまでの西遊記

 各地名所旧跡は勿論、当時の風俗まで記した貴重な旅日記を現代語訳にて記述したものであります。

江戸時代の旅の雰囲気をのんびりとお楽しみください。

  • 同行人:伊勢崎医師 時谷洞庵
  • 同行人:伊勢崎医師 小暮貞次
  • 同行人:伊勢崎医師 設楽栄庵
  • 僕  :2人 
  • 計   6人

嘉永三年(1850年)

正月28日(出発の日)上州伊与久

 昨夜から降り始めた雨は、夜中にはどしゃぶりになり、そのまま翌朝まで降り続いていた。

 その日の午後になって、ようやく雨はあがり晴れてきた。

 知り合いが町外れまで見送ってくれ別れを告げた。親戚の者たちは伊与久の中居(群馬県佐波郡境町剛志駅付近)まで見送ってくれ、そこから堺町村上に立ち寄り、大黒屋にて酒を振舞ってもらい、午後5時頃尾島町徳川に到着する。大竹茂左衛門宅に一泊する。

 次の日の朝、日の出と共に船は出発し江戸まで川を下る予定である。
 夜中は風が強く、船は出したもののどうなるものかと大変不安に思ったが、夜が明ける頃には風は止み、凪(なぎ)となった。

1月29日(2日目)関宿

夜明けと共に船は出発。

 風はなお強く、船の中は寒さが厳しい。皆その寒さに苦しむ。

 私は布団のお陰でその寒さを免れた。旅をするのに、布団がいかに重宝するか知っておくべきである。

 膳か島から富士山を見る事が出来た。

 昨夜の雨は、山々では雪になったらしく、銀色に光っていて美しい。

 川股にて弁当を食べて、栗橋で休んだ。午後3時のことである。

 4時頃関宿に到着。野村勘兵衛の営む船宿にて食事をとる。夜10時には出発し、松戸にて夜が明ける。食事を売る者が来る。

 「砂浜に見える鳥の群れは何か奇妙な鳥だ。
 小舟に乗り合わせる人々は皆同じように思ったようだ。」

 関宿では、夜に船を出すのが習わしである。なるべく朝から頑張って急ぎ歩いて、早目に宿に到着するよう心掛けるべきである。もし遅くなってしまった時は、二番船や三番船も出るのだが、一艘貸切りしようと思うと、次の日まで丸一日待たなければならず、次の日の夕方に出発しなければならなくなり、とても不便であるので、その点心得ておくべきである。

1月30日(3日目)深川

 今日は雲一つない暖かく良い天気である。深川沙村の亀久という茶店へ正午12時頃着船する。しばらく休憩した後昼食をとり、それから馬喰町二丁目の辻屋平兵衛宅に宿泊することにして、両国へ遊びに出かけた。

2月1日(4日目)浅草寺

 今日も天気は快晴で暖かい日である。四日市から上野、浅草へ行き、浅草寺へ参詣。そこから宿屋へ帰ってから旅の仕度をし、夜になってから島屋へ行き、亀屋林次郎氏に逢う。

2月2日(5日目)川崎大師

夜中から雨が降り始め、朝になってようやく小降りになる。
 浅草に徳川将軍様が来られるという事で、家々はみな戸を閉めている。午前10時になってようやく出発出来た。

品川


 大井、大森には鶴がたくさんいて、恐れもせず気安く人に近付いてくる。しかし、決してその鶴を追い立てたり、ましてや石など投げてはならない。

 ここは幕府が鶴を保護している場所であり、「鳥見」という役人に見つかってはとても厄介なことになるので気をつけること。

川崎

 川崎から大師川原へまわり、護摩を焚くことにする。私は今年で42歳の厄年にあたるからである。
 降っていた雨は午前10時頃には止んでいたが、まだ曇り空である。夕方、川崎の朝田屋武左衛門にて宿泊する。この辺は梨がとても安い。

しかし旅の間は生の冷たいものには気をつけること。
 この近辺で少し菜の花を見た。

2月3日(6日目)鎌倉

 朝8時頃から晴れて来た。

神奈川

 程ヶ谷から鎌倉に向かう。

保土ヶ谷
戸塚

 長沼、今泉、笠間などの村を過ぎて鎌倉に到着する。まず円覚寺を参拝する。
 山門には円覚興聖禅寺の額があった。人皇103代花園院様の真筆である。岩屋弁天石像は古びた色合いで愛らしい。伝教大師の作ったものらしく御朱印がある。

 650石の円覚寺の中には24の寺があり、出世天満宮八代の貞時の建てたもの。仏師の成朝作。 大光明宝殿の本尊釈迦は丈6尺でこれも成朝作。御本坊茅屋本尊は運慶作。十一面正観音佛身舎利殿も成朝。

 御霊屋大唐能仁寺にお参りにいくと、大きな釣り鐘があった。
 それには「正安三年辛丑八月七日本寺大檀那従四位上行相模守平朝臣貞時勧縁同成大器當寺住持伝法宋沙門子曇謹銘」と刻まれている。

 杉谷弁天最明寺時頼建立。弘法大師の作。建長寺表門巨福山の額は一山の書である。山門建長興国禅寺の額は宋の僧侶の書である。陣太鼓は楠の木で作られていて、さし渡し5尺8寸で、建久四年のものである。地蔵堂は時頼の像であり、古めかしくて趣がある。

 八幡宮に参試する。午後5時頃丸屋留吉に1泊する。

2月4日(7日目)江ノ島

 天気は快晴、今日は鎌倉を巡る。鎌倉権五郎の社である御霊神社、坂東札所第4番海光山長谷観音(長谷寺)を参詣する。

 七里ガ浜を通り江ノ島へ行く。

 途中40歳前後のひとりの男性が近付いて来て、100メートル以上も付きまとった。橋を渡るためのお金をくれなどいろいろと話しかけてくる。それでいくら欲しいのかと聞くと、4文でいいと言うので分けてあげた。

 こういった事からこの辺りの雰囲気が察せられるというものである。私の住んでいるあたりでは、子供であってもこのような卑しいものはいないものである。

藤沢

 その後、江ノ島恵比寿屋で昼食を食べた。
 この島に到着したならまず泊まるところを決めて、荷物の多い者は、その荷物をそこの宿屋に預けて、それから岩屋弁天に参詣した方が良い。岩屋弁天に到着したら奥の院に参ること。案内料は12文である。この島をよく知らない人は岩屋には行かず、また岩屋に行っても奥院を参らない人が多い。気をつけること。

 江ノ島で食べた食事の値段は三人前で2厘が並だという。並とは言えこの値段とは少し高い。こういう場合は茶屋に着いたならば参詣する前に、食事はいくらかちゃんと聞いた上で登山するべきである。
 また、参詣から帰って来て食事の時に酒を飲む場合、食事が出て来てからお酒を何合と注文すること。なぜなら出してくれるお膳にお酒や肴は十分にあるからである。

 また、鎌倉ではエビが必ず出てくる。これは珍しいものであるからと言ってあまり食べてはいけない。これを食べ慣れない人が食べると虫にあたることが多いから、慎むこと。

平塚

 ここから大磯まで歩こうと思っていたが、かなり足に疲れがきてしまったため、平塚に宿泊することにした。
 この宿場は貧しいところなので良い宿屋がない。しかし、物知りのご老人から聞くところによると、必ず箱根の手前で足を痛める人が多いと言う。その理由は足がまだ旅の足としてかたまらないうちに、道中が珍しいものばかりで先へ先へと進みたくなり無理をするからであると言う。
 これは遠くまで歩いて旅をする時に気をつけておかなければならないことである。

2月5日(8日目)箱根湯本

 今日も天気は快晴、平塚を出発する。

 「虎御石(とらごいし)」(大磯の延台寺にある霊石)は一見の価値がある。

大礒

 鴨立沢(西行法師旧跡)へ立ち寄ろうと楽しみにしていたが通り過ぎてしまって寄れなかった。とても残念である。
 すべて名所など見ておこうと思う場所は、かなり手前から聞いておかなければならない。

 人によって、聞いてみてもその場所をよく知らないことがあるが、見識の高い人では教えてくれる人も多い。必ず茶屋などの老人に尋ねてみると良い。もしちょっと名所を通り過ぎてしまったりすると、なかなか引き返して行くということは面倒で難しいものである。これは心得ておくべきである。

小田原

 小田原の駅にて食事をとる。ここから箱根湯本温泉へまわる。
 ここでは湯本温泉に泊まると決めるべきである。お湯はとっても良く、晩は必ず温泉に浸かるように。
 温泉までは2里の距離がある。350文で駕篭を頼む。石坂があり難所の始まりである。

 今晩は湯本の旅館「福住」に泊まる。(福住九蔵という二宮尊徳に学んだ者の経営する宿)
 ここから早雲寺まで34丁(1丁は104mほど)。北条氏代々の石碑があり、狩野古法眼の屏風があり。宗祇法師の墓は古跡である。尋ねてみると良い。

2月6日(9日目)箱根関所

 快晴。湯本を出発する。

 ここからは険しい道であり駕篭でも大変である。箱根頂上の関所前には雪がたくさん残っていて、関所を過ぎては吹雪に遭いとても寒く、駕篭の中でも大変な思いをした。

箱根

 三島の宿場に着いたら雨が降って来た。

三島


 ここからは平地を歩く。沼津駅の元問屋居右衛門宅にて泊まる。とても良い家である。

沼津

 夜になって雨は上がる。箱根峠は登りの人は小田原から、下りの人は三島から駕篭に乗ること。

 なかなか山道は険しく足を痛めてしまう。気をつけることである。駕篭代は、小田原から湯本までは300文から400文まで、湯本から関所の手前までは750文である。箱根から三島まで2朱2~300文くらいである。駕篭は宿屋で頼むと却って高く付く。直接駕篭屋と交渉するのが良い。なかなか値段の折り合いが付かない時は、後に酒代など取られないよう最初に決めておくべきである。

 この峠では先手抓駕篭であっても値段は旅人の好み次第で乗せてくれるが、以前は途中で喧嘩を仕掛けて来て降ろしてしまう悪い駕篭屋がいたため、今では江川領主、大久保領主によって厳しい御達しが出ている。であるから今はそういう心配はないが、それでも気をつけることだ。

箱根の関所にて

箱根御関所御番衆中(順庵スケッチ)

箱根手形其文

酒井志摩守医師剃髪 栗原元泉の申者

并小者壱人用事有之従上州伊勢崎勢州

迄罷越候

其御関所無相違御通江成可被下候

為後日證文仍如件

嘉永三亥戌年正月二八日

           酒井志摩守家来
             中村鉄次郎

 通行手形の右側に名前を書いてあるところがあり、その名前を番役人が聞いてくる。その時、その書いてある名前と違う名前を言ってしまうといろいろとややこしいことになる。姓と名は共に間違わないように言う事。

 もしまた手形の中に間違いがあり問いただされても、下手に言い訳せず、一向に気が付かずに持って来てしまいましたが、どうぞどうぞお通ししてくださいと悲しい顔で丁寧にお願いすることだ。

 仮に手形がない者でも三度押し返しお願いすれば通してくれるらしいので、少々の間違いはお詫びすることで勘弁してくれる。その時は関所の右手に回ること。縁に手をかけて這いつくばってお願いすることだ。

 この辺は宿引きが多い。宿屋はどこそこに泊まるというのを決めておき、それも出来たら浪花講などの良い宿屋の名前を覚えておくのがいい。
宿引きが近付いて来たらその宿屋の名前を言って、この人は旅慣れた人と思われる様に即答すれば、宿引きの心配はいらない。

2月7日(10日目)原、吉原

 本日も快晴ですこぶる暖かい日である。富士山は全景を現わし、終日お互いに見つめ合いながら歩いた。

吉原

 吉原を出発してからというもの、周りは菜の花に満ちあふれ、薫りが漂ってくる。

 梅沢という所で作られている「わらじ」はとても良い品であるから1足余分に買い求めておくと良い。また高さ4メートル弱ほどある橙(だいだい)の樹があり黄色い実をたわわにつけていた。そこから逆さ川、川井橋を通過した。この辺は坂もなく平坦であるから歩くのが楽である。

 昨日は箱根の山で雪に遭い少し風邪をひいたようで気分が良くない。「さった峠」を越えたあたりは聞きしに勝る風景であり、素晴らしい。原と吉原の間の寺尾村にて、8文を払い富士山の裾野にいるという野生の馬を遠眼鏡で見られると言うので見てみた。が、どこを探しても見ることが出来ない。これにはダマされた。

 柏原村の蒲焼きは名物である。しかし、これは食べてはいけない。とてもまずくて食べられたものではない。

 原、吉原あたりの休処で富士白酒を売っていた。これも決して呑んではいけない。必ず腹痛をおこす。みな甘く作ってあり美味しくない。

 岩渕村には栗の粉餅があった。これはおいしく食べた。

蒲原

 このあたりは山梨県身延に近く、龍王煙草、駿河半紙、砂糖は、この辺で作っている。

由井 薩埵峠

 夕方、沖津の清水屋治左衛門へ宿泊する。夜から風邪気が強くなりとても心配である。

2月8日(11日目)龍華寺

沖津(興津)

 快晴。浜辺に吹く風は心地よく、天からそよぐ風のようだ。沖津(興津)を出発し、清見寺に立ち寄る。景色が素晴らしく江尻から久能へ廻る。

江尻

 この道を行くとすぐに久能寺(現:鉄舟寺)という寺がある。この寺の門前には古い松の木があり、「権現様(徳川家康)馬つなぎ松」と言い伝えられている。かなりの古木であり、石のカイが木の幹に食い込んでいる。

 ここから龍華寺に寄る。このあたりは細い野道である。龍華寺の庭園の中には大きな蘇鉄(ソテツ)の木とサボテンがあり、これは天下の絶品である。向かいには三保の松原、富士山、田子の浦、足立山などが目の前に広がり言葉に出来ないほどの絶景である。

 ここから少し歩くと大きな道に出て、久能に至る。ほとんどの浜辺は塩畑であり、塩汲みの人も多い。

 久能山の茶店「彦太夫」にて案内を頼んだら、その料金10人までの一行で200文であった。

 番所へ名札を出す。この久能山、絶景である。伊豆半島から三宅島などが見渡せる。お宮(東照宮)も大変立派である。石間拝見料また一行で200文なり。

 これより山を下り食事を取り、府中に出る。府中の町並みやお城はとても良い雰囲気である。夕方宿屋に到着。米屋市与衛門に泊まる。

府中

 江尻村口にて船頭たちが待ち合わせている。三保の松原から久能まで船で送ろうというのだ。これには決して乗らない方がよい。三(御)穂明神は大したことはなく、羽衣の松は植継ぎであるし、遠くから見るのと違い、その場所に行ってしまうとたいして見るところはない。龍庵寺は見ない訳にはいかない。しかし、陸路はかなりの細道である。たびたび子供らに道を聞くと良い。

 久能の近くになると、また宿引が現れる。宿引は、クジ引きで交代で現れるから、宿屋はどれも似たり寄ったりで特別良い宿屋はないので、宿引の言うままでいいだろう。それより案内を頼んだ方がいい。茶店にて、参拝した帰り道の宿屋の亭主を装った者が出てくる時がある。これは本当の宿屋の亭主ではない。おそらく府中からの宿引であって偽りで言う。その宿屋の亭主が言うには、「今日はよろしかったら府中の何屋へお尋ねくださらんか。幸い今日は用事があって家の者がこちらに来ることになっているので、その者がいろいろとあなた方を御案内しながら府中までお連れしたいと思います。」と言う。そんな時は、こっちは兼ねてからどこそこという決まった宿がある(これは浪花講中と言わずに、浪花講中のうち家名だけを言って、ずっと前からの馴染みであるからと言うことだ)ので、ということでしっかり断るべきだ。決してその者の話を聞いていはならない。
 また宿引きはこんなことも言う。今宵、うちに泊まることで旦那方の泊まる宿屋の方に差し支えが出るようであれば、私どもが先方へ話を付けて来ますから、そのお宿はどこのご家中の御用宿でしょうか?ぜひ私どもにおまかせくだい。.....これらすべてウソである。決して信用してはいけない。向こうの企みは1泊の高級遊女屋に無理矢理連れて行くと言うこともある。

 安倍川餅は味もよく、食べて害はない。鞠子(丸子)の宿のとろろ汁はあまり美味しくない。

丸子(鞠子)

 夕刻になり鞠子の宿では、家ごとに軒下に竹を置いている。なぜかと尋ねると今日8日は神送りであるから、と言う。面白い風習である。

2月9日(12日目)大井川

 晴れ。北西の風が強い。朝は少し雨が降っていた。
鞠子を出発すると1.7kmほどの「宇津の谷」の峠がある。ここの「十団子」は子供だましみたいなもので、食べるようなものではない。

宇津の山 岡部

 岡部の先の藤枝は良い宿場である。嶋田駅はあまりよくない。

藤枝

 大井川には、川を渡るための川越問屋がある。今日は川の水が満水のため、いつもなら一人68文で渡れるのであるが、武家は一人につき2人の川越人夫がいるため2倍になる。荷物を運ぶのに一人分払う訳だ。

島田 大井川
金谷 大井川

 そこから菊川橋から菊川峠で1.7km、中山峠も1.7km。随分と骨の折れることだ。

 「夜泣き石」は名石である。通りの真ん中にあって、「南無阿弥」の四字の古めかしさを見ておくこと。その傍には「血の池」がある。この日は日坂の宿の坂屋所左衛門に泊まる。

日坂 夜泣き石

 中山飴の餅(現:子育飴。水飴をお餅にかけたもの)は、食べて害はない。悲子屋という茶店がある。この飴で子供を育てたと言っている。

 今日は、娘や若妻ばかり2人1組で、お伊勢参りの帰りであろう者たちに逢った。藤枝が里である人らしく、みんな赤い紐を付けて、袋を首にかけ、みんな木綿の服を着て、伊勢音頭を大声で歌い歩く。その姿はとても貧相であり、この辺りの風俗は、これを見ての通りである。これを見ただけでも、私の郷里が贅沢過ぎるということを実感しなければならない。

2月10日(13日目)掛川

 今日も晴天である。日坂を出発。

 このあたりはとてもほがらかとした陽気であり、だいたい地元の群馬あたりと気候が似ているようである。

 朝、掛川にて休み、秋葉路へ入り、森町にて休む。この辺はとても良いところだ。

掛川

 ここから四十八瀬越に掛かるこの川の名前は太田川というとても田舎な場所であり、見どころはあまりない。

袋井

 三倉で宿泊する。かちや八郎兵衛宅泊。(ここから先はあまり良い宿屋がないので、宿に着いて宿泊代がいくらであるか聞くこと)

2月11日(14日目)秋葉山

 曇天。三倉を出発する。

 ここから御山(秋葉山)まで全て峠である。朝10時から雨が降ってくる。一之瀬から馬に乗る。馬上は寒さが一段と厳しい。御山に近付くにつれ雨に雪が混じってきた。麓(ふもと)より14丁(1丁=104m程)手前に茶店があった。一軒だけの茶店で主人の名は「六」という。店の中は上州あたりとことごとく似ている。ここから先へは軽尻馬(空尻馬:本馬というと荷物三十六貫を積むが、空尻馬では半分の十八貫しか積まない)では進めそうもない。この茶店で少し休み、火を焚いてもらって暖まらせてもらった。この店の主人は猟師である。元六十六部であった。

(六十六部:六部とも言う。日本六十六か国の神仏を遍歴して法華経を納めるという行者で、男女とも衣服、手甲、脚絆などみなネズミ色の粗末な木綿で、腰に下げた鉦(ふせがね)や手に持った鈴を鳴らして、家の門口に立って、御詠歌など歌いながら物乞いして旅をする。)

 ここからは徒歩で麓の乾(いぬい)という所に到着した。この間、気田川舟渡があり、武家以外では12文の料金。この辺は町並みが続く。

 尾張屋という家に到着した。ここから御山まで50丁の登りである。まだ昼の12時頃であるが、雨や雪が降っており、その上足も痛いので、ここに泊まることにする。

2月12日(15日目)石打

 雨雲が幾度も通り過ぎ、雨の降った後も晴れたり曇ったりで定まらない。

 乾を出発して秋葉山の山道を14丁登る。麓にまた宿屋茶屋があった。ここから秋葉山へ50丁登りばかりが続く。周りは杉の木が多い。この辺には8~9丁ごとに茶店がある。安部川餅や蕎麦などを商うが、どこも味はあまり良くない。

 御山の霊は尊ぶべきではあるが、この険しい山道では人々は大変である。

 御山は雪がたくさん降り積り、寒いこと甚だしい。氷柱が多いこの寺は、臨済宗の大きな禅寺である。200人余りの修行僧が寺内に御こもりし修行している。

 ここから表門へ出て、鳳来寺道50丁の下り坂。表に比べるとかなり急な坂である。

 この御山あたりの物価は他の土地と比べて高い。犬居(乾?)から戸倉までは辛抱しなければならない。

 戸倉村。戸倉から一之瀬村まで1里半あり、山深いところである。お茶畑が多く、谷間には蜜柑や橙畑がある。これらはとても美味であり、値段も安い。この辺りの山中は杉の木ばかりで他の木が見当たらない。

 ここから石打。坂は極めて急で難所である。平地はまったくない。この辺は椎茸も栽培している。

 石打村の山形屋、森下屋は家の作りも良く、宿屋ではあるが軽い食事も出してくれる。熊村に到着。湊屋にて宿泊することにする。この宿屋昔から今まで並びものがない程の天下第一の悪宿屋である。まだ日が高くても石打に泊まるべきである。

 秋葉山の霊は言うまでもなく素晴らしいものであり、霊験(神通力、ご利益)も著しいものがあり尊ぶべきである。しかし、道路の困苦、飲食の粗悪は実に堪え難いものがあり、足の弱い者は、登ってもいいが、無理して登らなくても良いだろう。

 この辺を過ぎ行く人は、日がまだ高くても良い宿屋が見つかったならば、そこで宿泊するべきである。さもなければ日暮れなどはとても難儀し、かつ足を痛めてしまうことだろう。

2月13日(16日目)座頭ころばし

 少し風はあるものの快晴である。霜が降り少々暖かく感じる。

 熊村を出発し、大平村に着き馬を頼むことにする。

 ここから「座頭ころばし」(目の見えない人が一度転ぶと止まらないほどの坂)、嶺には「三這(みつばい)の堺」がある。ある人は「馬殺しまで難所が多い」と言う。もっとも逆から来る人にとっては下り坂が多いと言うことになるが。

 ここから須山村(巣山)と細川村の間の村である。大野村に入ると少しは町並みがある。桐屋という茶屋で昼飯を食べた。ここから御山まで30丁の登り。秋葉山に比べると坂は急であり、且つ石が多い。

 熊村から大野まで50丁、道は4里半ほど平地がない。御山の30丁目に行者返しという岩を1丁ほどよじ登った。ここから6丁ほど進む。(ただし、この間は却って下りであった)峯薬師(鳳来寺の薬師如来:現存せず)で拝礼を済ませ、そこから9丁ほど下り。この間すべて石の階段である。

 そこを下りてくると村があり、茶店も多くある。「根仙亭」にて休む。ここで一服してやっと山道から解放された気分になった。お茶や酒、肴がすべて旨く感じる。帰りしなに駕篭屋があり、新城まで乗った。この間50丁、1里300文で3里乗った。夕七つ(夕方4時頃)新城に到着。この新城という所は思いのほか賑やかな町である。七千石の町である。

 菅沼織という正御陣屋がある。柏屋という宿名がある家である。この宿屋木瓜屋も良い宿屋である。鳳来平までの村々では、若い女性から年寄りの女性まで「背負いモッコ」で材木などを運ぶのを仕事としている。ここまでの山の木々はすべて杉の木である。傾いた高い木が多い。また、生の杉の葉をたくさん背負って行く。「それをどうするのか?」と聞くと、すべて抹香を製し浜松へ送るという。

 この辺りの馬士の唄は、群馬と変わることがなく、その歌詞

「上州追分桝方の茶屋で引、なみだほろりがナァーわすられぬ」と言う。

 これほど離れた土地でも、その歌詞は同じであることが不思議である。遠くこの地で、風俗すべて馬士に至るまで、純朴で礼儀正しいところに感心することが多い。また、嘘をつくこともなく、少々儲けても、それを貪らぬこと実に愛すべきことである。これすなわち、唐土の魯国(孔子の生まれた国)の如く、大聖(孔子)の遺俗を尊ぶべし、尊ぶべし。

2月14日(17日目)御油

 晴天。昼過ぎから雨が降り始める。新城出発。御油まで平坦な道が続いた。

御油

 この日、私の足が痛くて大難儀した。夕方、岡崎に到着。雨は益々強く降り続いた。

岡崎

 桔梗屋に泊まろうと訪ねたが、大変混み合っていて、仕方がないので銭屋という妓樓(女郎屋)に泊まった。この店は随分丁寧である。もっとも少しは女郎を勧めては来たが。

赤坂(御油の少し先)から藤川まで駕篭に乗った。

赤坂
藤川

岡崎の女郎達は、名前だけで矢張り飯盛売女(宿屋で旅人の給仕もし、売春も兼ねた女)である。

 新城から女性の風俗や言葉が関西風に変わって来て、やさしい感じである。

2月15日(18日目)宮宿女郎海道第一

 朝8時頃から雨は上がり晴れてきた。町外れから駕篭に乗る。(ただし、鳴海まで)

池鯉鮒

池鯉鮒(現:知立市)までの間に大浜茶屋という宿屋がある。この宿、休息処と書いてあるが宿屋である。これが以前、池鯉鮒宿との間に訴訟問題になった。結局、道中奉行から「足痛の旅人が休息し、またそのまま泊まってしまうことにおいては宜しい」というお達しが出て落ち着いた。両宿共に本陣があり、立派である。

 ここから桶狭間古戦場を一見する。ここまでの間の宿は落合村にある。鳴海絞を商う大家が多い。(ただし鳴海に宿は少ない)もっともこの品は江戸や田舎に行けば買えるのでここで買う必要はない。1反につき、江戸まで送るのに送料銭7歩もかかる。

「宮宿女郎海道第一」と聞きしに違わず、妓樓の華麗さ、娼婦の容姿、実に心目を驚かされた。ゴウド町金百匹、伝馬町金二朱である。ゴウド町永楽屋、鯛屋の両家は三都に負けていない。芸者、芸子は善を尽くし、美を尽くす。芸子は13、4歳の年齢で関東の踊り子である。その繁栄たるは流石は名古屋の花街と言われるだけのことはある。

 ここの娼は宿にも来てくれる。酒肴の代金はいくら、花代はいくらと言うが、これは単なる宿屋の番頭の案内であり、一晩中芸者を揚げて遊ぶといくらかかるのか、番頭としっかり座って掛け合って、先に値段をしっかりと決めておいた方が良い。

 その夜は、深夜2時に帰宅した。一緒にいた芸者は久松と小菊、芸子はせきとすらの両人ずつであった。

2月16日(19日目)熱田神宮

 快晴、宮宿を出発し熱田神宮へ参詣する。ここから名古屋まで1里の間、町続きである。

 名古屋は繁華であり、三都(江戸、京都、大坂)に並ぶ程である。且つお城、金の鯱(しゃちほこ)など一見の価値がある。

 この土地の言葉はことごとく「ナモシ、ナモシ」と言う。

 また、町内は、犬を飼わず、見付(番兵が見張るところ)もなく、火の見やぐらもない。これはここの君主に禁じられているからである。

 ここからはずっと町並みが続き、清洲を過ぎてから野道になり、名古屋から5里行ったところで津島に至る。津島は随分と良いところであり、宿屋もある。ここから25丁ほど堤づたいに歩き佐屋に至る。近江屋と言う宿に宿泊する。これを「佐屋廻り」という。

 津島や名古屋を見ないのであれば、宮宿から直ちに海路7里で桑名に到着する。便利ではあるが、津島や名古屋は一目見ないでおく訳にはいかない。そこまでの道も良い。

 佐屋から桑名への3里の船旅。この舟、午後4時以降は舟を出さないと言うが、正午にはもう船頭と宿屋がグルになって舟を出してくれない。1泊していくように勧められる。この辺はそういったところがあまり良くない土地なので、出来るだけ正午までには佐屋に到着しておくべきである。しかし、1泊するのも良い。(名古屋、津島あたりをのんびりと見学して、ちょっと休憩しただけで、宿代の半分くらいの値段を取る)

桑名

 舟行での乗り合いはあまり良くない。(値段は安いが、かなり混み合って窮屈である)5、6人で一艘を借り切るくらいがいいだろう。450文である。

 さてまた、この地へ京都の宿屋供が4、5人くらい来て居り、その連中が皆尋ねて来ては、家名を名乗り、京都に行くならうちの宿に泊まってくれと迫ってくる。うっかり相手の名前を聞いたりしてしまうと、長々と話を始める。またその中で聞いたことがある名だ、と言うものなら、その宿引きは直に手札を出し、後程、酒を持ってくるから是非口約束で良いからと益々宿を勧めてくるので困った。こういう時の断り方は、「京都までは行かずに、伊勢を参って帰るつもりだ。もしたとえ京都に行くようなことがあったとしても、自分の兄弟が京都に住んでいるので、そこを訪ねなければならない」ときっぱり断る。さらに宿屋まで押し掛けてくるような宿引きは、余計に取り合ってはならない。持参して来た酒などは必ず返却すること。戯れて呑んではいけない。この者たちは、遠くまで必要なものなど真心こめて買いに行ってくれたりしてくれるが、やたらと買物を勧めては棒先を切り(人に頼まれた買物のうわまえをはねる)、更にその上妓楼を勧めて2朱10里の女郎を百匹位に申しなす。様々な貪り方があるものである。

2月17日(20日目)桑名

 晴天だが少々雲がある。佐屋を朝六つ(午前6時)に出発。舟の中は寒風が甚だしく、私たち一行で1艘の舟を買い切り、448文なり。もっともそのうち148文は舟玉であった。五つ半時(午前9時)桑名に着船した。

 桑名の湊(港)には太神宮(伊勢神宮)の一の鳥居があった。今日は桑名弁当にて、オランダ人に出会った。桑名を出て四日市までの半ばあたりのところで出会う。行装は見事であり、オランダ人2人、一人は輿に乗り、もう一人は歩いている。私と肩を比べて見ると3寸(9センチほど)ばかり高い。容姿や衣服は絵に描いた通りである。

 四日市は良いところである。太神宮へ宿を過ぎてしばらく行くと追分がある。ここでまた今度は大坂の宿引がいた。先日の京都の宿引に答えた通りに答えること。

四日市

 ここからは平地といえども、9尺(2.7mほど)ほどの道であり、田んぼ道が多い。参詣人がいつもよりかなり少なく、神戸のご城下を過ぎて、白子に至っては雨が降って来たため、大黒屋九郎衛門にて泊まることにする。

 夜になって益々雨は降り続いた。

 佐屋のご番所は尾州侯から出仕しているので、佐屋舟は450文で一艘買い切るに限る。その上に少々酒代も遣ってやるがいい。200文ほど遣わすがいい。もっとネダって来たならば100文ずつ増やしてやること。一度にたくさん遣わすと、またもっともっととネダッてくる。

 他、乗合舟は20文である。30文で一人前として済むが、16人乗りと言って20人位乗せ、舟に水が入り込むように、わざと舟をゆすって、人が多く混み合っているので大きな舟に乗り替えてくれ、と言って、あらかじめ舟を自分で用意しておいて乗替えさせる。また大きな舟になると人夫が多く必要になるからと言って、一人前150文位から200文ほど上手にゆすり取っていく。

 舟を一艘貸し切ってしまえばそういった心配はなく、また舟に乗る前、宿屋まで人が送り迎えまでしてくれる。その時に船頭に、船賃は宿屋に渡してあるからそちらから受け取ってくれと、ちょっとことわりおくこと。念のためである。心得べし。

 桑名を出て、少し行ったところの村で、焼き蛤(はまぐり)を商っている茶屋がある。名物ということで客を引き込んでいるが、ここで休んではいけない。真の本家名物は、四日市と桑名のちょうど中頃にある冨田というところ(桑名より一里半ほど行ったところ)に、ここよりも良い茶屋が2軒ほどあり、蛤を商っている。吾妻屋定右衛門という家は綺麗でけっこうだが、焼き蛤は2、3個を限度としてたくさん食べ過ぎないように。味噌煮にし、うしほ煮は妙なり、命ずべし。

2月18日(21日目)津

 朝、曇っていたが四つ頃(午前10時)から晴れて来た。少々肌寒い。

 白子宿には安産の観世音(子安観音:白子山観音寺)がある、参詣すべし。そこには不断桜(一年中葉と花をつける不思議な桜:現存)がある。

 ここから津の御城下である。良いところだ。

 ぼらばな(意味不明)にて茶漬けを食べる。大黒屋藤兵衛は名茶屋である。

 ここから雲出まで2里。しかし、思ったより近い。雲津川があり、宿をさし挟んでいる。

 北雲津までは半道ばかりである。駕篭などを頼む時は、南雲津までいくらかと決めることだ。

 月本六軒茶屋、ここに大和屋という店がある。

 松坂に到着する。この松坂宿は紀州の領土であり、紀州侯の御陣屋があってとても賑やかである。

 七つ(午後4時)到着し、大石屋喜兵衛に泊まる。

2月19日(22日目)おばた宿

 天気良し。松坂出発して、今田、櫛田川がある。舟渡りし、その先の新茶屋の柳屋にて休憩する。良い茶屋である。

 そこから先におばた宿(小俣市)本陣がある。諸侯はこの御本陣にお泊まりあそばされ御参詣し、また御立返り、この宿にお泊まりあそばさたということを聞いた。

 これより宮川舟渡し、そこから少し行って山田である。八つ時(午後2時)到着。

 御師(おし)は、三日市太夫次郎手代井村助太郎である。櫛田川を渡って神領(神社の領地)に入る。ここで人足に出会い、旅人の出身地を聞いて来る。「私は三日市からお迎えにあがりましたので、これから御案内します」と言う。

御師とは、伊勢神宮神職で、年末に暦や御祓を配り、また参詣者の案内や宿泊を生業とした者。伊勢では「おんし」という。この制度は明治4年7月には廃止されている。伊勢講やら神明講やらの集団が背景にあるお伊勢参り。その集団を取りまとめるのがそれぞれの御師であったらしい。

 私は最初、これはまた宿引きの類いではないかと気をつけていたが、これはすべて神領の百姓らのお役目であって、いずれかの御師のところまで旅人を連れて行けば、一日のお役目が終わるというものであった。しかし、彼等の様子では少しの酒代はもらいたがっている様子であった。

 まずはじめは案内は必要ないと、一通りは断った方がいい。それでも必ず付いて来る。それでも構うことはない。

 三日市太夫次郎も八軒ある。気をつけておくことだ。もし、迎えの者が来てくれない時は、三日市太夫次郎御用達と印のある家に立ち寄って、いろいろ聞いたら良い。であるから、山田到着は少々早い方が良いだろう。

 御師の家の玄関で、取り次ぎの者へ、姓名、出身地を申して取次いでもらい、その上で座敷に通り、しばらく待っていたら使用人が来る。その時に、国処、姓名が書かれ印の押してある手札を遣わす。その後、井村助太郎が来た。

 その時に、奉金はいくらくらい差し上げたらよいのか、また宜しくお取計らい願い入ること申したら良い。名札出方

 酒井志摩守内上州佐位郡
 伊勢崎住居 栗原元泉

 と、書き記して遣わした。

2月20日(23日目)山田

 晴天、暖かい日である。山田は他より寒気が強いが、思いのほか良いところである。

 この日、早朝より出ず。

 外宮、内宮、そこから朝熊岳まで行く。お供の者が一人で弁当持参で来た。帰った後、小神楽修行があった。その後、古市杉本屋へ行く。また、そこを出て、備前屋にて遊ぶ。歌野、梅路という怪物が出た。

 私たちは、参宮役料のお役目で小神楽金300匹、他に山役銭など330文を修める行である。もっとも本役というのは、金1両2朱であるため、本役には参宮したり朝熊岳に行くにも駕篭を出してもらえる。お供の者が付き、看板着用し、座敷やそのお膳も結構なものである。駕篭の者へはご祝儀300文も遣わすこと。小神楽で本役であると、大神楽と同様である。

 御師のところへは奉金を減らすべきではない。三役以上は勧めてはいけない。案内の者へもご祝儀として200文くらい遣わすこと。因(ちなみ)に言っておくが、古市であるので妓楼も多い。花代も様々である。しかし、備前屋、杉本屋、油屋、柏屋という家は四大家である。

 ここから、おやま(江戸では遊女を女郎というが、上方ではおやま、傾城という)花代22厘5分で、その他に何も入用なし。何日も留っても、決まった値段の他にお金は必要ない。三味線もおやまに引く者がある、芸者をあげてはいけない。定値段の他に値が上がっていき、悪い者に掛け合ってしまうと参ってしまう。この地は、御地と申すにはこれ無く、茶女と申すものにて、茶見世の申立の由、その印は上り口に湯釜がいつも掛かっている。気をつけて見ること。

 音(おん)という者が備前屋で興行していた。これは壮観であった。必ず見ておくこと。その代金、一座で金一両である。もっとも一行10人位まで一両で済む。

 音と座敷まで連れの者を通して、お菓子やお茶を出す。この時、すりもの、三方に乗せて出す。これは一座に一度である。早く引き上げて、懐にしまってしまうこと。

 音と踊っているものたちは、みな娼婦である。全部で30人くらいで、そのうち4人は三味線、2人は胡弓。衣服はみんな対で、桜ちらしに、源氏車である。

2月21日(24日目)二見ヶ浦

 晴天、雲多し。夕方に少々雨が降った。

 今日は二見ヶ浦を見に行った。

 夕方、伊勢崎の仲間が4人来た。

 (多賀源門、文五、新岡、栄政)と連れ立って備前屋牛車樓に登った。ヲンド(伊勢音頭?)は一見の価値あり。

 夜になって大雨になり、朝には止んだ。

 今宵の大一座は面白かった。

これにて伊勢金比羅参宮日記前編終了 後編へ続く

-伊勢金比羅参宮日記, 歴史
-, , , ,

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

関連記事

伊勢金比羅参宮日記【旅の持ち物編】

 伊勢金比羅参宮日記に記されている「旅中心得」。その中の持ち物について解説していきます。江戸時代末期の伊勢金比羅詣りではどのようなものを持って行ったのでしょう?ひとつひとつ簡単に解説していきたいと思い …

旅中心得

 現代の旅でも山歩きでも通用する、江戸時代の旅の心得。伊勢金比羅参宮日記において、旅行中に気を付けることを栗原順庵が教えてくます。  私はあまり旅をする方ではなく、近所の低い山を歩いたりする程度。泊ま …

逢坂山から三井寺花見散歩

 新型コロナウイルスによる「往来自粛要請」が出ているので、隣町の山にはいけず、県内の山を散策することになった。  京阪京津線大谷駅からスタート。  午前9時55分に駅を降りる。車内はみんなマスク着用し …

トキワツユクサと常盤御前

 最初は「白いツユクサがあるのか?」って思った。  白くて可憐な花。  もう少し拡大してみよう。  花弁は3枚。オシベが6本。あとは毛かな?メシベはわからない。  細い笹のような葉。  周りを見れば、 …

伊勢金比羅参宮日記(後編) 栗原順庵

渋紙装丁の横型綴本:縦9cm×横20cm:和紙2つ折りを73枚綴じたもの。行書体で墨書きされている  時は江戸時代末期(1850年)、上州伊勢崎藩御典医であった栗原順庵が42歳の厄年に群馬から利根川を …