今までの失敗を振り返ってみると、
過大な期待値の上に乗っかっていたなぁって思う。
リスク管理も出来ていなかったし、妄想とも言うべき期待値だけ自分一人でグイグイと上げてしまって、「リスクもないし、簡単にクリアできるはず」と甘くみていたところばかりだった。
ツイテいるときは、それでも思った通りにうまく行ったもんだが、ツイテいないときはとことんすべての憶測がこれでもかと外れてくる。
心も動揺してしまって、こんなときは絶対にやってはいけないと言う行動も「こんなときは仕方ないんだ!」って怒りとともにやってしまって、それがまた悪い方へ悪い方へと自分で自分を追い詰めてしまう。わかっちゃいるけどどうにもならない。転げ落ち始めたものは、なかなか止められない。
いつも臆病で小心者の私でも失敗は多い。年齢を重ねるにつれて失敗も少なくなってきたが、それでも「今ならいけるかも」と言う変な気持ちが差し込んでくる。こう言うのを「魔が差す」と言うのだろうか。悪いことを考えているわけでもないのだが、やはり「欲」というものがムズムズと動き出すのだろう。

車で事故を起こした時もそうだった。 前の車が遅くてイライラして、我慢できずに追い抜こうとして、ろくに安全確認せずに「追い抜きたい」一心で行動を起こした時に自分を見失う。
「欲」があること自体が悪だとは思わないが、いつも悩みや不安はその「欲」と共にあると理解している。となるとヒトは生きている限り欲と共に不安を抱えて生きていくのが宿命なのだと実感させられる。
ツライ仕事があるからこそ、楽しい休日があるように、不安があるからそれが解消した時の快感もある。みんなそんなのを繰り返しながら日々生き続けているんだろうな。
さて、「解脱」「悟流」なんてことは生きている限りできそうもない。命がなくなるまさにその瞬間くらいにその境地に達する「かも」しれないが、その時でさえ「諦め」に近い感覚なのかもしれない。

近頃は以前のような大きな失敗や、欲による暴走はなくなった気がするが、うっかりミスやら、手が滑った、物忘れによるもの、確認不足などの失敗が多くなり、失敗の質が変わってきた気がする。
これはこれでどう対策していけばいいのか。まだまだ傾向と対策は続く。
とにかく、失敗というものは生まれてから死ぬまでずっと続くものであり、それを無くすことは不可能なことで、失敗の質は変遷していくものの、その失敗を教訓にしつつも同じ失敗を繰り返してはため息を吐く日々である。
それなら失敗を嘆いても仕方ないと割り切っても、なかなかそれを継続することもできない。
そうやって歳を重ねても、日々悩みながら暮らしていくのが人生なんだろうな。でも、山を歩いている間だったり、ゲームをしている時間だったり、何かに夢中になっている間は、それを忘れられるのが素晴らしい。
『チャンスは最大のピンチ』とはよく言ったものです、人けしかけるの大好き♪
Akiさん
「ピンチは最大のチャンス」じゃなくて「チャンスは最大のピンチ」ですか! それはまた面白い逆説。(^_^)
「チャンスはいつもピンチの顔をしてやってくる」っていうのもありましたね。
1分早いと変わらない。
5分早くても変わらない。
10分早くても変わらない。
と、のんびりと待てる時間を増やすに限るかも。
一般人さん
なるほど。(^_^)
>失敗の質が変わってきた気がする。
⇒身体能力が落ちてきたので、
慌てず、急がず、余裕をもって・・・。
しんちゃんママさん
>慌てず、急がず、余裕をもって・・・。
歩行者信号でも、目の前で点滅しはじめたら急いで渡ることをせず、止まるようになりました。