
このフルーツのカスタードパイ、写真のように見えますが、
「実は色鉛筆で描いたものです。」
と書けば、きっと驚かれると思うし、すぐに画像を拡大表示して「本当に?」ってペンのタッチとか調べ始めるかもしれない。
ここでの衝撃は「色鉛筆で描いたのに写真みたい」ということで、どんな画材で描いたか知らないけど美しい絵だというよりも、そう言われるとガラリと印象が変わるものだ。
実はこれはなんてことない、スマホで撮影した写真なのであるが、「実は色鉛筆で書きました」と一言添えるだけで衝撃的になるものなのだ。これが「95歳のおばあさんがちぎり絵で描きました」とか「3歳児が水彩絵の具で描きました」でも同様の衝撃が走ると思う。
最初の写真を見て「フルーツののったスイーツみたいなもの」「ふーん、美味しそう」くらいに思っていたのが、実は写真じゃなくて「色鉛筆で描いた絵だった」で驚き、「実はこれは古代エジプト時代に実際にあったレシピを再現したモノで、それを実際に作ったのはフランスのパリで有名なパティシエのピエールさんで・・・」なんて言ったら、重ね重ね驚いてしまうかもしれない。
そうやって、人生の中には様々な「意味付け」されたもので溢れていて、「これは誰々のプロデュースの財布」とか「限定品の最後の1個」とか、そんな付随する「ト書き」とでもいうのだろうか、「と、言われている品物」「と、噂される逸品」ばかりが世に出回っている。
本当は「意味なんてない」かもしれない「人生」にも、意味付けしたりして生きがいにしたり、それが神様とかが書いたシナリオ通りであろうが、自分で描いた人生設計であろうが、その人の意思に沿うか沿わないかに関わらずあちこちでドラマは生まれて消えていく。
自分の知らないところで、自分の中の細胞は日々生まれて死んでいく。毎日、私の身体を守るために細菌やウイルスと戦い死んでいく免疫細胞のために、毎晩感謝のために祈っているわけでもない。
すべての出来事には「意味がある」とするか、「意味なんて何もない」とするか。
今、蚊に刺されて血を吸われた。叩き潰したその蚊の人生に意味はあったのだろうか?その蚊と一緒に生まれた卵のうち、孵化してすぐに小魚やエビに食べられてしまったボウフラの人生に意味はあったのだろうか?
意味付けした時点で意味があることであり、意味付けさえしなければこの世に意味のあるものなんて何もないのかもしれない。
いつもいつも、こんな文章を読んで時間を費やすことになってしまって大変申し訳なく思うばかりだが、書いている本人はそれなりに楽しんでいるからタチが悪い。
↓ 近頃、琵琶湖湖畔を歩いていてよく見かけるこのカワイイ黄色い花。

この花はとてもカワイイのであるが、今ちょっと問題になっている植物なのである。
「琵琶湖の侵略的外来水生植物」と書くと、可憐な黄色いお花も見方が変わってくる。
これは、2014年6月に外来生物法の特定外来生物に指定された「オオバナミズキンバイ」。
現在、この植物を駆除すべく行政や漁協やNPOなどが対策協議会を作り効率的な駆除方法を模索している。
ここで咲かなきゃ「侵略的外来水生生物」などと呼ばれなかったのに。他で生まれていたら愛されていたかもしれないのにって思ってしまう。
プレバトの鉛筆画、『才能あり&先生』の作品、いつもため息ついています。
>オオバナミズキンバイ
⇒お寺の近くの手賀沼も計画的駆除をしているようです。
しんちゃんママさん
写真と見分けのつかない絵って多いですよね。あの技術はすごい。
>手賀沼も計画的駆除をしているようです。
そうでしたか。全国あちこちで大変なんですね。
(意味付けした時点で意味があることであり、意味付けさえしなければこの世に意味のあるものなんて何もないのかもしれない。)・・意味づけ≒認識ととらえると最近よく目にするようになった「人文分野での量子力学的アプローチ」に近いね。すなわち観測されるか否かで結果が変わる、過去が現在を決めている(因果論⇒統計学的アプローチ)だけではなく未来も現在を決めている、という考え方。面白いから好きだけどね、あまり声高に言うと変人扱いされそうだけど(笑)。
あかいみさん
いつも面白い視点のコメントでうれしいです。
仏教の教えを科学的に分析していくと、「宗教」というよりも「科学」というイメージの方が強い気がします。現代の「科学という名の宗教」よりも、「仏教という科学」の方がしっくりきます。と書くと、某宗教団体みたいですが、関係ありません。(^_^;)
「未来も現在を決めている」という考え方、嫌いじゃないです。