
日常的に散歩をしている私にとって、散歩の何が楽しいかというと、なんでも受け止めてくれる懐の深さだ。と書くと大袈裟だけど。
何事も飽きっぽい私が続けていられるのは、私のマイブームにいつでも付き合ってくれることだ。
草花に興味がある時には住宅地の花壇や道端の雑草など、どこでも植物園だ。
地名に興味がいった時には、電柱に貼られている住所表記を眺めているだけで楽しい。
ブラタモリのように、高低差を楽しんだり、地質を意識して歩くのも面白い。

見上げれば雲の動き、種類。その時の気温や湿度、気圧配置によっての雲の違いなど、ずっと見ていても飽きない。
鳥に興味がある時も、琵琶湖の水鳥を始めとして、街中にも思いもよらぬ鳥がいることがわかる。山を歩けば鳥のさえずりも楽しめる。

屋根の上を見れば、その地区によって瓦に違いがあったり、屋根の上に様々な鍾馗様が見られる。家の作りに関しても、いくらでも見ていて飽きない。雨戸のある家ない家、外壁の違い、外構も様々で楽しい。表札も各家趣向を凝らしていて飽きない。
電信柱だけでも色々楽しい。電話線、光ケーブル。
電線だけでも高圧線、動力線、電灯線、共用アースなど、その存在を知ると結構面白い。
古い城下町だとこれまた面白い。わざと迷うように作られていたり、歩いているうちに方角がわからなくなったり。行き止まりがあったり。古地図と共に歩くとより一層楽しめる。
まぁまぁ書き出したらキリがないのだが、自分の街でもまだまだ歩き足りないのだから、隣町まで足を伸ばす余裕がない。
世界を歩いてきたという人もいるだろう。私はほぼこの街しか知らない。でも語り出したらキリがないほど語れる。それほど色々歩いてきたが、それでもまだまだわからない事だらけで、まだ歩き足りないのだ。

歩いている時間が足りない。もっと様々な視点で歩きたい。そしてそれらを総合してわかってくることを知ってみたい。それがこれからの楽しみ。
これからはそんなことをしながら生きてみたい。最小限必要な分だけは稼がないといけないかもしれないが、それに費やす時間はもうそれほど要らないんじゃないかと思う。
周りでも同世代の人が呆気なく死んでいく。その人たちが老後のためにとコツコツとやりたいことを我慢してきたことはなんだったのかと思ってしまう。決して無駄ではないと思うが、もっと自分のやりたいことをやればよかったと思わないようにしたい。
もっとやっていて楽しいと思う時間を増やしていきたい。いつ死ぬかわからない。突然に死がやってきた時に、「こんなことになるなら、老後のことを考えて今やりたくないことなんて我慢してやるんじゃなかった!」なんて思いたくない。
そんな風に思う。
贅沢は要らないし、お金のかかることも必要ない。ただ気持ちよく歩いて、小さな発見をしてワクワクしているだけで幸せなんだから。それだけでいいんだ。ただそれだけで。

近頃同じところばかり歩いているけど、以前は西上州の上野村・南牧村・下仁田町、秩父方面だと旧両神村や吾野方面・名栗村等の里山をぶらぶら、登山口が民家の裏なんてよくある話、下山口が離れていたら畑道を1,2時間歩いて車に戻るなんてことも…、その土地々で農作物も様々、見たこともない苗とかあると、一緒に歩いている農家出の知人の奥さんがよく教えてくれたものです、田舎道歩きはいつも新鮮で楽しい♪
わかりますー! 登山口が民家の裏って、こちらにもよくあります。下山したら私有地だったとか。庭仕事していた所有者に「すみませ〜ん」って恐縮しながら出て行きますが、「どうぞどうぞ」とそのお家の方もいつものことって感じでした。