
山崎努と樹木希林という、ともに日本映画界を代表するベテランが初共演を果たし、伝説の画家・熊谷守一夫妻を演じた人間ドラマ。30年間もの間、ほとんど家の外へ出ることなく庭の生命を見つめ描き続けたという熊谷守一=モリのエピソードをベースに、晩年のある1日を、「モヒカン故郷に帰る」「横道世之介」の沖田修一監督がフィクションとしてユーモラスに描いていく。昭和49年の東京・池袋。守一が暮らす家の庭には草木が生い茂り、たくさんの虫や猫が住み着いていた。それら生き物たちは守一の描く絵のモデルであり、じっと庭の生命たちを眺めることが、30年以上にわたる守一の日課であった。そして妻の秀子との2人で暮らす家には毎日のように来客が訪れる。守一を撮影することに情熱を傾ける若い写真家、守一に看板を描いてもらいたい温泉旅館の主人、隣に暮らす佐伯さん夫婦、近所の人々、さらには得体の知れ
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あぁ、こんな老後がいいよなぁと思った。
自然あふれる広い庭を毎日散策して、植物や小動物を観察して、スケッチして、生態を調べて、日々それを記録したり、絵を描いたり文章を書いたり。
現実問題として、どうやって食っていくんだ?っていうのがあるけど、不労所得で生きていけるならこんな生活がしてみたい。
もちろん、モリさんよりも若くて体ももう少し動ける状態で。贅沢な話だけど。
毎日のようにたくさんの人が、書を書いてくれやら、取材やらと訪れる。それも嫌だな。
広い庭を管理したり、手入れするのもかなり大変だから、今の私のように空いた時間に山に入る方が楽なのかもしれない。毎日のことじゃなくて余暇を利用してそういうことをやっている方がいいのかも。
そう考えると、今の自分の生活がいいのかな?そうやって自分なりの心地いい生活を作ってきたのかもしれないなって思った。
欲しいものを一つ手に入れたら、また次の欲しいものが手に入れたくなる。それはキリがないんだな。だから、一つの欲しいものを手に入れない状態がずっと続けば、その次の欲が現れなくて済むのかもしれない。
上手になると先が見えてしまう。下手も絵のうちです。
モリさんが子供の描いた絵を見てその親にいうセリフ。
「うちの子、才能ありますかね?」
「ヘタですね」
呆気にとられている親に言うのだ。
なかなか言えるもんじゃない。
モリさんの家の隣に大きなマンションが建つことになった。モリさんのすべてである庭が日陰になってしまう。モリさんの仲間が建設反対の看板を出したりする。
でもさっきのセリフを言ったのは、その工事現場の責任者。その後も、工事現場の若い職人たち大勢に、買い過ぎた肉を御馳走したりしちゃう。
変化を受け入れ、中庸を求めているような気がした。
地球上の生き物で生き残っていくのは、ぶれない生き方をしているのじゃなくて、いかに変化に対応し適応できるかだ。こだわりが強いのも考えものだ。
仏教も結局「こだわるな」「すべては空なんだから」。
なんだかこの映画でそんなことを思い浮かべてしまった。
樹木希林さんのすっとぼけた演技、池谷のぶえさんの見事な上質の演技、そして何より山崎努氏のなりきり具合が神業だった。
自然を撮影した映像も美しく、夜にこの映画を流しながら絵を描いたり、文章を書いたりしたいくらいだった。