後白河法皇の信頼を失い、宇治川の戦いにも破れ、
範頼・義経軍に追い込まれた木曾義仲は、
今井兼平、巴御前と他2騎を従えて琵琶湖畔の粟津の松原にたどり着いた。

琵琶湖に流れ込むこの細い篠津川のほとりの住宅地の中に今井兼平の墓がある。
すでに2騎は討たれ、最後に巴がどうにか逃げ切り、義仲と今井兼平の2騎が残る。
「殿! もはやこれまで。どうか雑兵に撃たれる前にご自害のほどを。それまで私がなんとか持ち堪えます!」
「頼む」と言う間も無く、義仲は顔面を敵の矢で撃ち抜かれ、あっという間に首を落とされた。
義仲が討たれるのを見た兼平は、口に刀身を咥え、そのまま馬から飛び降り自ら命を絶ったと言う。その時、50騎の敵兵に取り囲まれていた兼平の元には矢は8本しか残っていなかった。
当時、篠津川の上流にあたるおそらく茶臼山古墳のあたり「墨黒谷(すぐろだに)」に今井兼平の墓所があったらしいが、討たれた場所に近い現在の場所に墓所が移されたのは江戸時代1661年だった。茶臼山は、春には隠れた桜の名所、秋にはドングリを拾いに幼稚園児が集まる場所でもある。茶臼山は古墳でもあり、県下第二位の大きさを誇る大古墳で、前方後円墳である。被葬者はわかっておらずおそらく壬申の乱の大友皇子一族の者であろうかと言われている。

どうにか落ち延びた巴御前は、義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称しながら日々供養したとされるのが、現在も義仲を祀る「義仲寺」である。

旧東海道沿いにあるこの義仲寺には、木曾義仲の墓と松尾芭蕉の墓、そして巴御前の墓と伝えられる「巴塚」がある。
コロナ禍以前は、観光バスも停車して大勢の観光客が訪れることもあった。すぐ前の道路は旧東海道とは言え、乗用車が離合するのが大変なほど狭い生活道路であり、通学路でもあるのでいつも混雑していた。
今は、東海道ウォークの方が必ず立ち寄るスポットになっており、小さい庵ではあるが必ず誰かしら訪れている。
能に「巴」という演目があって、それは巴御前のことです。この時代に女でありながら勇ましい女武者ですが、とても義仲を愛していてゆえなのかと、いつか見てみたいのですが。
アプリさん
能に「巴」という演目があるのですか? どのようなお話なのか気になりますねー。大河ドラマでも、とても勇ましく義仲一筋に描かれていましたよね。
大河ドラマの登場人物を確認する時は「誰がその役とやっているか?」を調べます。
そうしないと、頭が混乱するので・・・。
今井兼平役は町田悠宇さん。よく存じ上げないのですが、〝青天〟にも出演されていたので、見たことはある役者さん。しかも、三谷大先生の作品にも抜擢されたということはいい役者さんなんでしょうね。
KURI様のコメントを拝見し、今後の大河ドラマがますます楽しみです。
しんちゃんママさん
>「誰がその役とやっているか?」を調べます。
わかります。朝ドラと大河ドラマで出ていた人は、しばらくその役名で呼んじゃっていますもん。
この大河での今井兼平は、もう少し目立って欲しかったなぁって思いました。
御存じ新田義貞はこの界隈(旧新田郡)出身だけど、木曽義仲って言うくらいだから、奈良井や藪原界隈が拠点かと思いきや、旧朝日村界隈で育ち、丸子町あたりで挙兵後、上州へ向かったりなんだりとあちこちうろうろ、最終的には北陸方面から攻め込むけど、京にたどり着くまで結構苦労してますねぇ。信濃義仲よりやっぱ木曽義仲のほうが通がいいのかな・・・
Akiさん
そうなんですよね! 木曽っていうから木曽福島から飛騨高山のあたりをイメージしていましたが、朝日将軍の朝日は「東筑摩郡朝日村の朝日なの?!」って思いました。東筑摩郡って言ったら松本市のちょっと北って感じですもんね。埼玉生まれというのもちょっとイメージが違って面白いです。(^_^)