
山科駅から毘沙門堂の裏を抜けて大文字山へ入ろうとした道に、
花首から落ちた椿がぼとりと落ちていた。
まだそのまま飾りたいくらいの美しさが残っているのに、
「私の美しさはもう終わり。少しずつ衰えていくくらいならいっその事この首を落として殺してよ!」と言わんばかりの潔さというか、切なさ。
山茶花のように、「少しずつ老けていくのも良いものだよ。その歳ごとに楽しみがあるものだから。それを楽しまないと。」と言ってくれているのもある。

南禅寺に咲いていた山茶花は、椿とほぼ見分けがつかないが、花びらだけがハラハラと散っていっていた。
どちらがいいかではなくて、「私はこうだから」と決められていた道を進むだけ。
ヒトはどうなのだろう?
ヒトそれぞれに違うのだろうが、それは後天的なものなのか、先天的なものなのか。同じ遺伝子を持つ一卵性双生児なら同じなのだろうか?
「私はこういう生き方しか出来ないんだよ、ごめんね。」と言いながら泣き崩れるくらいなら、ここをどうにか乗り越えてもう少し頑張ってみたら良いのにと思うこともあるが、これはどうにもならないことなのだろう。
他の生き物でもそんなことを思うことがある。雨の翌日にはミミズはどうしてみんな集団自殺しちゃうのだろう? 虫はどうして光にあつまるのだろう?
きっと科学的に解明しているのだろう。ヒトの行動もすべてプログラムされていることで、数学的にも解明できるのかもしれない。でも、どうしても逃れられない何かってあるんだよなぁ。ここまで生きてきてそう思う。