自分には性格的にいろいろな面がある。
多分みんなもそう。
やさしいところもあるし、厳しいところもある。
ある男が人質をとって銀行に立て籠もった。警察が説得するが投降しないしない。お母さんが呼び出されていう。
「あの子は根はやさしい子なんです!」
どんな人にもやさしいところがり、冷血なところもあり、穏やかな面も、せっかちな面も持ち合わせている。
小学校の同級生からは、「グループの中心的な存在でいつもみんなを笑わせていた」という人が、職場での評判では「誰とも喋らず孤立していた」という話もある。
どれが「本当の自分」なのだろう?
「本当の自分」なんて、自分でもよく判らない。判らないから「自分探しの旅」に出かける。それでも判らない。
60年弱生きて来てもまだ自分が判らない。
「やさしそう、臆病で怖がり、心配性、器用貧乏」
これがよく言われる私のイメージ。
「臆病で怖がりで心配性」は自分でもそう思っている。
「やさしそう」は、きっと臆病による「嫌われるのが怖い」からくるものだろうと自己分析している。
「嫌われる勇気」を読んで、一時は勇気をもらったが、やはり「嫌われる勇気」はまだ持てていない。
いつも最悪の事態を想定して、そうならないように万全を期すことを心がける。準備周到なのは心だけで実際に行動をするのはそれほどでもない。
要は、無駄な心配だけ人一倍しているというだけだ。
これを過剰防衛ともいうかもしれないが、やめられない。これで最悪の事態は避けられて来たとも思っているからだ。
みんな小さい頃からいろいろな経験を積んできている。
楽しい思い出もいっぱいだが、嫌な思いをしたこと、もう2度とあんな経験はしたくないということも多いだろう。
その2度とあんな経験はしたくない、経験しないようにどうするかということに多くの時間を費やして来た気がする。それが不安に思い心配すること。
心配しても「なるようにしかならない」というのも真実である。だからケセラセラで吹っ切れた人と、それでも悩み続ける人。
吹き入れた人の方が合理的であるような気がする。その方が人生楽しいと思う。
「心配性の人は、悩むことを楽しんでいるんだよ」とも言う。
う〜ん、確かにそうなのかもしれない。
心配するのをやめたら、一体何を考えていればいいのだろう?と思ってしまうのは、やはり相当重症なのかもしれない。