今まで芸術に触れて身動き取れないほど衝撃を受けたのは数回ある。
どれも絵画だ。
ゴッホの「ひまわり」、ゴッホの「オーヴェールの家々」、ゴッホの「自画像」、そして葛飾北斎の「白拍子」という静御前を描いた肉筆画。
どれもネットで画像検索すればすぐに出てくると思う。
しかし、その画像をみても身動きが取れなくなるほど衝撃を受けることはないだろう。
私もその絵画を鑑賞する前に、パンフレットや美術の教科書、百科事典などで何回も見たことある絵だったのだから。
実物を目の前にしたときに、
いや「目にする」ではなくて、肌で感じるに近いかもしれない。
その絵に当たった光が反射して自分の視神経を刺激して感動したとは思えない。
指で触れたわけでもないし、香りがあったわけでも、音がした訳でもない。
なのにあの衝撃はなんだったのだろう?と今でも不思議に思う。
あの絵画からは何が出ていたのだろう?
芸術というもの、とりわけ「美」というものは言語化することは難しい。
どれだけそれが素晴らしかったのか、それを言語で表すことは難しい。
どれだけ美味しいものを食べても、それが如何に美味しかったかを言葉で伝えるのが難しいのと一緒だ。
天上の音楽でも、如何にそれが心を躍らせる音であったかを言葉で伝えるのは難しい。
身振り手振りで、声を大きく言葉多く語っても、それを理解してもらうことは困難だ。
今まで、人は感動したことをどのように他の人に伝えてきたのだろう?
どれだけ大変だったか、どれだけうれしかったか、どれだけ悲しかったのか。
それをどのように伝えて共感を得ようとしてきたのだろう?
VRであっても、4DXでも、あのゴッホの絵をみて身動きできなくなるほどの感動を再現できるとは思えない。
たとえ精巧に複製が作ることができたとして、同じような感動が得られるのだろうか?

山に登り、山頂から見下ろす絶景に息を呑むことはある。
美しい夕焼けに涙することも、思わず手を合わせたくなるほどの御来光もあった。
それはまた自然のものとして感動的なものであるが、
人間が作り出したもの、言ってしまえば色のついた画材を筆で紙の上に置いたものだ。
それが感動に震えてしまうとは。
あそこから出ているものはなんだったのだろう。
今でも不思議でならない。
そんなことをふと思った「芸術の秋」。