「自分」というものは誠に掴みどころがなくてよくわからない。
自分の性格がどうのという話ではなくて、「自分」というものの定義がよくわからないのだ。
自分の意識が考える「他者」と明らかに区別するもの。
意識としての自分と、肉体としての自分と、別々に考えたとしてもそれは同じで、
分子の淀みである肉体も、どこからどこまでが自分の肉体なのかもその線引きがはっきりしない。肉体に関しては、免疫系が判断してくれるところが大きいので、ある面においてはその免疫系の判断に委ねている部分が大きいだろう。
しかし、自分のツバが口の中でクチュクチュしている間は汚いと感じないのに、一度それを手のひらに出して瞬間にそれは汚いものへと姿を変える。一度手のひらに吐き出したツバを再び口に戻してクチュクチュするのはなかなか抵抗がある。
犬は平気で自身が吐瀉したものを食べたりする。人は口の中で噛み砕いて食塊にしたものを一度出したら、それを再び食べ直すことはとても抵抗がある。なぜだろう?今、直前まで口の中にあって飲み込もうとしていたものなのに。
それでいて、皮膚を傷つけて出た血液は平気で舐めることが出来る。
本を読んでいて、指が乾いてページがめくれないときに指を舐めて湿らせることは平気だし、もう一度その指も舐められる。
視覚的な問題なのだろうか?

まぁおよそこの辺りまでかな?ってところで自分なりに線引きしているのだろうが、その線の引き方は人それぞれ違う。そこでまた諍いが起きてくる。
意識としての自分もそうだ。どこまでが自分でどこからが他者なのか。
酔った時に恥ずかしい行動をとってしまった時に、「あの時は酔っていたから」と言い訳をする。酔った時の自分は自分とはまた違った人格なのだろか? 酔ってしまって本来の自分がいなくなっているのか?となると、その本来の自分とはなんなのだろう?考えれば考えるほどわからなくなってくる。
それの本質が分かったからと言ってどうなることもないだろう。考えている時間が楽しいなら、それもいいだろうけど、そうでもないなら考えなくてもいいことだ。そう考えると、何事に関してもそう言える。
私の好きな歴史に関してのことも、勉強している時間が楽しいならそれでいい。そうでもないなら他のことをやればいいのだ。歴史の勉強をしなかったからと言ってどうなることでもないのだ。
「そんなことを考えている暇があるのなら人の役に立つことをやるべき」ということだって同じことだ。正直「大きなお世話だ」。あなたは人の役に立つことが楽しくてやりがいのあることだと思っているからやっているだろうが、それをそうと思うかどうかは人それぞれなのである。