子供が小さい頃、
玄関にバラバラと靴が散らばって脱いであるのはいい。
「ちゃんと揃えて脱ぎなさい!」って言う怒鳴り声が響いて微笑ましくさえある。
仕事を終えて帰宅すると、それほど狭くもないはずの玄関に、
山積みに脱ぎ捨ててある可愛らしい靴に、
「今日もみんな元気そうで何より」と感じたものだ。
今では小さい子もいなくなり、玄関にはちんと履き揃えた靴が数足並んでいる。
「あ、ちょっとズレてる」って自分の脱いだ靴の前後を揃えたりすると、
昔の山積みの子供靴を思い出す。
そのたくさんの靴を踏み越える時の足裏の感触さえまだ憶えている。
玄関に揃えて脱いである靴は、気持ちもすっきりするが、
道路脇にきちんと揃えて置いてある靴を見ると、
「きっと、土足禁止の車に乗るときに忘れてしまったのかな?」と想像する。

先日は、国道の車線の真ん中に1組の靴が道路に対して縦に揃えて脱いであった。
あれは一体なんだったのだろう? それなりに混雑している国道なのに。
そんな「どうしてここに靴が揃えて置いてあるの?」を見るたびに、首を傾げる。
大きな橋の欄干の下に揃えて脱いであるとゾッとする。
山を歩いていて、大きな岩の下に乱雑に脱ぎ捨てられた登山靴とか、
流れの早い川の脇に置いてある靴とその中に無造作に突っ込まれた靴下。
思わず辺りを見渡してしまう。
山の中に落ちていた派手な女性用下着だったり、
急なカーブに置いてある花束だったり、
子供の学習机の上に置いてある1万円札5枚とか、
他の場所で見ればなんてことないのに、
それがあるべき場所ではないところにあると、頭が混乱する。
モノがそこにあるには、それなりの理由が必要なのだと言うことだ。
手首を指で触れて脈を感じるのは当たり前だが、
本を触って、本がドクドクと脈を打っていたら思わず本を放り投げるかもしれない。
過去の経験をもとに、
モノがそこにあることと、そこにあっていいことと、そこにあって欲しいことと、あって欲しくないことと、
チラッとそのものを見たときに、違和感を感じるとか、二度見しちゃうとか、認識さえしないとか、
意外と見ていないようで見ていて、
見ているようで見ていない。
まぁ、そんなことだ。
って、いつものオチのない話。