朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の終盤を観ていて、「ひなた」の祖母である「安子」が遠く思えていたが、それが少しずつモヤが晴れてリアルになっていく。安子の母である西田尚美演じる「小しず」や、その義母のひなたのヒーヒーおばあちゃんの鷲尾真知子演じる「ひさ」もヒーヒーおじいちゃんの大和田伸也演じる「杵太郎」も、「おいしゅうなれ」のおまじないによって身近な存在にさえ感じられる。また「るい」の父「雉真稔」の英和辞典を手にすることで、そのリアルを肌で感じることにもなる。
世良公則の息子を世良公則が演じているのもそう。代々似たような顔をした子孫がその世界で生きていく。

先日、離れて暮らす長女から写真が送られてきた。
「引き出しの奥に、こんな写真が入っていたよ」
義母が使っていた小引き出しの奥から出てきた1枚の小さな写真。76x112の30切サイズと言うのだろうか?その古い小引き出しを古道具が好きな長女が使っていて、引き出しの奥を掃除した時に出てきたものらしい。。
セピア色の写真の中には、昭和30年代の親戚が集まる賑やかな風景が写っていた。今から60年ほど前の写真。妻の祖父母を中心に、叔父叔母や従兄弟たちが写っている。妻はまだ生まれていないのか、この写真には写っていない。
戦争が終わって10年以上20年弱経過している頃。
阪神淡路大震災から27年、アメリカ同時多発テロから21年、東日本大震災から11年、東日本大震災においては「ついこの間」と言う感覚である。そう思うとこのセピア色の写真は、まだ戦争と言うものが「ついこの間」と言うことで語られていたのだろうと思う。
日本の歴史は長くもあり、短くもあり、
ひとりの人の人生も、長くもあり、短くもあり、
すべてが夢幻のようでもあり、現実のようでもあり。
「世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」 古今和歌集
和歌というものを、今までよくわからないものばかりだったのだが、近頃「なるほどなぁ」って思うことが多いのは、やっと少しモノが見えてきたってことなのかな?
その年で今か?ってことだけど。
それにしても、昭和30年代後半、ご婦人が当たり前に着物を着ているのにもちょっと驚いた。
震災へのお気遣いいただきましてありがとうございました。
片付け作業の最中ですが、度々古いものが出て来ると、つい見入ってしまうことがあり、古い写真もその一つです。作業が進まないので困ります。
セピア色とはよく言ったものですが、もう万人に周知し定着した言葉になったようです。
言葉そのものが色づいているというのも面白いです。
昭和30年代は、学校の参観日にも母親が着物で来たと記憶しています。
絹擦れの音と、少々樟脳の匂いがして、私としてはイヤに緊張した記憶があります。
カラスさん
片付け作業中に昔の写真を見つけてしまうともう絶対に手が止まってしまいますね。ヘタしたら日記帳まで引っ張り出してしまいそうです。昔の写真は小さいし、解像度が低いので老眼鏡や虫眼鏡も必須ですし、なかなか厄介です。
私が小学生の頃は昭和40年代になりますが、ポツポツと着物のお母さんがいらした程度ですが、居ないことはなかったです。
Come,come everybodyは何とも破天荒なストーリーです。回転焼きだけであの大きな家を借り、働かぬ旦那を養い、しかもおいしいご飯を食べている。まず中流の生活。
ひなたの奔放な生活。漫画だと思ってみてましたが、48歳の高津が18歳を演じてから見てません。
先のコメントは私です。気持ち球がないんですね。ウエブリがブログをやめたらそれで休止にしようかと思っています。
nibari1498さん、コメントいただきありがとうございます。
48歳の深津さんが18歳として、実年齢25歳の村上虹郎くんを「勇おじさん」と呼んでキャッチボールしているシーンは、なかなか楽しかったですねー。(^_^)
「ひなたちゃん」がちょうど私の世代かと思います。あんな感じに見られていたんだなぁって感じました。
小学1年生の頃、東京の中野に住んでいましたが、
毎朝、納豆屋さんが来て、からし&きざみネギを入れてくれました。
夕方はお豆腐屋さんのラッパの音が・・・。
小学生高学年の頃、ビン持参で、
近所のミヤザワという食料品店に量り売りの食用油を買いに行きました。
小学生の頃、よく食べていたヤマ〇キの菓子パンを
昨年、他市のスーパーで見つけ、なつかしくて買いました。
⇒当時15円(?)でしたが、今は110円でした。
セピア色の思い出で~~す。
しんちゃんママさん
納豆屋さん、お豆腐屋さんは知っていても、「ビン持参で食用油」は知りませんでした。納豆屋さんも刻みネギも入れてくれたのですね。
なんだかいろいろ懐かしいです。(^_^)