
50過ぎまで生きてくると、ほんの少しの成功話と数多くの失敗話を酒を飲みながら語れるようになってくる。そして、それを気持ちよく後輩に話しては鬱陶しがられるのも悲しい現実であったりする。
自分の数少ない成功は多くの偶然が重なってのことであることは、自分でもわかっている。
自分だけで大きな成果を上げられたと幻想を抱きたくなるが、実はたくさんの人のおかげで作られた産物であり、たまたま自分にスポットライトを当ててその事象を振り返った時に、主役に見えなくもないという程度なのだ。
大きな失敗には、たくさんの言い訳で防御して自分の非は少しと思いたいが、現実は多くの必然のみでの結果なのである。
そういう現実が、50代になって落ち込んだ時にはじわじわと責めてくる。
自分でもわかっている。そんなことはわかっているんだ。

「杞憂」と「後悔」はするもんじゃない。
深みにハマってしまう。出来るだけその方角に自分の心が向かわないようにしっかりと手綱を取らないと、ついついこの暴れ馬は手綱を振り切ってそちらに駆けて行ってしまう。
この5〜6年は、この暗く深い水の底をフワフワと漂い、「杞憂と後悔の沼」の中に浮かんでいる。
いつ「杞憂と後悔の沼」の底を蹴って浮上しようかと思うが、本当にその蹴るべき底は今この直下にあるのか?ここは人生の底なのか?蹴ったところで浮上するための推進力になるのか? 浮上したところで何をすればいいのか? またそこで杞憂と後悔の沼を漂う。
今までにも数日〜数ヶ月沈んでいたことはあったが、50代のは長い。いや長かった。過去形にしたのは、少しだけ推進力を得た気がするからだ。それもなんとなくだ。
親の死によって、自分の寿命というものをリアルに意識するようになり、自分の50数年間の人生を少し俯瞰してみられるようになったこともある。
それこそ死ぬ間際に見られるという、自分の人生の走馬灯のようなダイジェスト版。それを親の死に接することで垣間見てしまうのだ。
若い頃に描いた壮大な自分の人生が、今ではなんとちっぽけなものになってしまったことか。
「そんなことはないよ!」と、いくらでも自分で自分を擁護もできるが、いくらでも卑下もできる。

長く生きれば生きるほど、自分の「自尊心」を維持することは難しくなるのだ。
若い頃の無鉄砲ではち切れそうな自尊心はすでに粉々に砕け散っている。自分はなんてちっぽけなのだろう?自分は無力だ。そんなことを考えながら漂っている。
「杞憂と後悔の沼」の底を蹴るのは、おそらくその自尊心なのだと思う。
「これでいいのだ!」とバカボンのパパのように生きられたらどんなにいいだろう?
そうなのだ。バカボンのパパのように生きるのだ。それがスティーブ・ジョブスが言っていた、「Stay Foolish」というものなのかもしれない。

杞憂と後悔はしない。しないように日々努める。
過去の後悔も、今このためにあったと思おう。人生に点在しているたくさん後悔の点を、一つ一つ線で結んでいくと、きっと何か絵が浮き出てくるのかもしれない。
未来を杞憂する気持ちのコントロールも、体力や記憶力の衰えを優しく受け入れるためのテクニックに役立ってくれるのだと思う。
杞憂と後悔は、50代の小さくなってしまった自尊心をかえって失わさせてしまう。
Stay Foolish!
「考えるな!」「バカでいろ!」
なかなかそう出来るものではないのもわかっている。
小さい頃からずっと、「よーく考えなさい」「考えて考えて答えを導き出しなさい」
そうやって物事を理論立てて考えることに慣れてきた。そして、実践してきた。_ 今更「考えるな!」なんて・・・。
そうなりゃ、もうボケるしかないだろう。そんな気もしてくる。
それでも50代になると、ある一つのスイッチに気が付いて、パチっとそのスイッチを入れれば結構あっさりと切り替わることも出来る。

自分のやれることだけやればいい
そう決めてしまう。
もう安請け合いはしない。できないことを無理に引き受けない。なんでも「はい、喜んで!」なんて言うもんか。そう決めちゃう。
実際そんなことは出来ないなんてわかっている。でもそう決めると気持ちが圧倒的に楽になるのだ。試してみるといい。もう嫌なことをはしなくていいんだ!好きなことだけやっていくんだ!と決めたときのその爽快感と言ったら格別だ。
そういう覚悟をすると、行動も徐々に変わってくる。
天台宗を開かれた伝教大師最澄もこう仰っている。
「径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ則ち国宝なり」
「径寸十枚」は、お金だと思えばいい。そんなものが宝ではなく、自分の置かれた場所で、精一杯自分に出来ることを行い、明るく光り輝き、世の中の一隅を照らし続ける。そういう人が国の宝物だと仰っている。
嫌われたら嫌われたでいいじゃないか。やれることだけやる。そういう新たな防御の思考回路が組み込まれる。そういう回路をいくつもいくつも組み込んでいくと、それが強さになる。「あきらめるな!」「最後までやり抜く!」「努力こそすべて」と言う根性論は50代からは自分を苦しめ、自尊心を失わせることになる。
心理学者のアドラーはこう言う。
・現在引きこもっている背景は、アドラーは「過去の『原因』ではく、今の『目的』を考えます。」
「嫌われる勇気」より
・「不安だから、外に出られない」のではなく、「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考える。アドラーはこれを目的論と呼びます。
・われわれは原因論の住人であり続ける限り、一歩も前に進めません。
原因を探して除去するのでなく、その目的を考えろ。
今こそ、今まで自分では知らぬうちに積み上げてきたものを実現化させるとき。今までの嫌な思い出、小さな成功、ふと思い出したなにげない出来事、みんなが同じように経験してきたことであっても、その一つ一つが重要な「点」となり、その点を基にして、振り返った時に見える自分の人生のイメージが、その一つの点によってガラリと姿を変えることだろう。
ずっと消したいと思っていた「点」も、50代になるとそれこそが重要な点だったと分かるようになる。
その「点」のおかげでここまで来ることが出来たと思えるようになる。
そう言う人生の謎解きが始まるのも50代であり、今までの伏線を拾っていくのも50代のような気がする。
ちゃんと拾い残しがないようにしないといけない。
なぜならそれが
「幸せ」というものだからだ。
小さな幸せをいくつ拾えるか。
小さくて気付かないものばかり。
今まで一生懸命働いて生きてきたのは、車に乗って道路を走るようなもの。
それも猛スピードで。ぶつからないように、スピード違反で捕まらないように、人に迷惑をかけないように。車の流れるスピードに合わせて、遅れぬように、追い抜きすぎぬように。
全身の筋肉を緊張させて、口の中もカラカラ。思考も狭い。
50代直前から少しシフトダウンしてスピードを落とし、
50代に入ったらもうスピードはいらない。
ゆったりと景色を見ながら歩く。
その日の天気しか気にかけずに生きてきた。
道端に花が咲いていることさえ気がつかなかった。
そう、その花が「幸せ」なのだ。
今まで気がつかなかったもの。それに気づくこと。一つ見つかれば後は簡単。
こんなに咲いていたのかと気づくはず。
ずっと前からそこに咲いていたのに。
その花を集めていけば良い。
おそらく今までに出会った人たちが、道標に立っているはず。
ある出来事のときに、思わぬ人がそこに立っていて、「あぁ、そういうことだったのか」と思わされるのだ。迷いながら歩いてきたこの道はここに出るのか、あの分岐でこっちに来たのは間違っていなかったのだと確信する時だ。そもそも間違った道などないのだが。
山で迷ったら登れ。谷を下ってはいけない。

これは人生でも一緒。登ったほうが迷いは少なくなり、谷を降りれば危ない。山の素人は降りたがる。50代と慣れば人生のベテランの域。道に迷ったら下らずに登ることを意識すること。
アドラーはこうも言う。
・今あなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。不幸の星の下に生まれたからではありません。
・「不幸であること」がご自身にとっての「善」だと判断した、ということ。
・あなたはあなたのライフスタイルを、自ら選んだのです。
かなり手厳しい言葉だ。
杞憂と後悔の沼に沈んでいたかったから、自尊心を自ら捨てた。

全力で「違う」と言いたいが、言えるだろうか?
ここで再び考え込んではいけないのだろう。Stay Foolish!
ソクラテスも「無知の知」として
「知恵者を自認する人より、自分は世界中の知恵を知っているわけじゃないと言うことに気づいている者の方が優っている」
と言い、
論語においても
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」
とも書いてある。「知らない事は、知らないと自覚すること、これが本当の知るということ」、と言うことだ。
自分のひとりの知恵など、たかが知れているのだ。
それを自覚できただけで勉強もしていないのにひとつ賢くなったと言うことだ。
このようなことを書いていると言うことは、私自身がそうであり、それを戒めるために書いていると言うのはおそらくこれを読む人はそうご想像していると思うがその通りである。
・これからの人生、深く考えないこと。
・努めていつもニコニコ笑っていること。
・楽しそうに好きなことに打ち込んでいること
それが自尊心を失わないことなのかなと思う。

上手くまとまらないが、現時点ではそう生きていこうと思っている。
悩める同輩よ。