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「伊勢金比羅参宮日記」を含む歴史関係、日々の料理レシピ、乾癬について、山歩き、生活の知恵、5人の子育てなど、多岐にわたる個人ブログです。

ライフシフト 生活

50代後半の死生観

投稿日:2020年3月29日 更新日:

 ちょっと時間ができたので、書き留めておこうと思った。

 死についてのことだが、今は「死」というものが怖くない。うーん、「怖くない」という言葉は違うような気がするが、それに怯えていないという方が近いか。例えば、明日地球が滅亡するというならそれで仕方ないと思うが、「100人だけ生き残れる」ということになり、その100人に選ばれてしまう事に怯える。これはきっとこの年齢まで生きたからだろうなと思う。そして、今まで楽しい思いも少なからずさせてもらったからだろうとも思う。その100人がその後に大変であろうことも想像できるからでもある。

 死んだらどうなるか。おそらく何もなくなる。魂なんてものもない。この思考や意識もなくなる。死は寝るのと一緒。だから毎日死んでいると思っている。怖い夢を立て続けに見ると、寝るのが怖くなる。でも、いつ寝たのかもわからないくらい疲れていたら夢も見ずに朝まで熟睡状態だったら、それはほぼ意識としては死んでいる状態なんだと思う。その意識がなくなり何も記憶がない状態になるのが怖いかというとそんなことはない。怖いのは意識をなくした時に「お前、こんなこと言ってたぞ、あんなことやってたぞ!」と言われる方がどれだけ怖いか。
 死ぬときはどんな感じかというと、どうにも眠くなって意識が徐々に遠くなって、ストンと意識が落ちて寝てしまった状態。それがきっと死の瞬間なのだろうなと想像する。気持ち良さそうじゃないか!
 再び違う人に生まれ変わったり、復活したり、地獄というようなところに落ちたり、お花畑みたいなところで暮らしたり。そういうのはあるのかどうかわからない。でも、ないような気がするなぁ。

 死に対して怯えることはないが、壮絶なる心身的苦痛は「死」とは別問題として味わいたくないものである。それに対しては大変怖いし怯える。よって、安楽死については法律的にはなかなか条件が難しいであろうが、基本的に肯定的なスタンスである。

 若い頃に比べて自分の体が思うように動かなくなってきた。楽しいと思うことも若い頃と違ってきた。昔、両親や祖父母と一緒に遊園地に行ってジェットコースターに乗ろうとする時に、祖父に「一緒に乗ろうよ!」と誘っても「おじいちゃんはいいや。〇〇ちゃんだけで行っておいで。おじいちゃんはここで見ているだけで楽しいから。」そんなやりとりがあった。それは今になるとよくわかる。子供や孫が何かを体験してくれるとそれだけで自分も体験したような満足感があるのだ。これは不思議だった。子供が試験に合格したり、感動的な体験をしたり、美味しいものを食べたり、きれいな景色を見てきたりすると、自分が体験してきたみたいに心がうれしくなる。いわゆる「我がことのようにうれしい」。
 これはなんなのだろう?
 自分も子供も孫も一つの命の中で生きていて、ある部位が喜べば全体がうれしいということかもしれない。血縁だけでなくご近所さんや自治会、県単位、国単位でも場面によっては感動を共有できると思う。となると、みんなが一つの命の中で生きているということだ。
 自分は大きな生物の一つの細胞であり、毛が生え変わるように、皮膚が新陳代謝を繰り返すように、爪が伸びて切ったりすり減ったりするように、腸内細菌が毎日働きそして排出されるように、生と死がいつも続いているたったそのある一瞬が人生だったりするのかもしれない。毛がはらりと1本抜け落ちることを「死」と言わないのであれば、人の死も「死」ではないのかもしれない。
 幸せに生きるために、死をもっと意識することが大切なのかもしれない。

 昨年は母が急死した。その日の朝、目が覚めなかった。
 「人は突然死ぬ」「死は突然やってくる」と実感した。明日の朝、隣で寝ている妻が目覚めないかもしれない。いや、自分も帰宅途中に死ぬ可能性もある。余命宣告を受けると生き方が変わるように、「死」を意識すると生き方も変わる。
 そして、自分が死んでも世界は変わらず動いていく。みんなが生きている一つの命は生き続ける。
 その一つの命が「地球」というものであれば、その地球も小惑星でも衝突すれば一巻の終わりである。壮大と思っていた地球という命も、宇宙規模で考えるとほんの一瞬の儚い命なのかもしれない。宇宙にはそんな命が無数にあるのだろう。地球が出来てたかだか46億年。文明の記録なんてたったの数千年。人の一生なんて長くても100年。地球にとっては滴が1滴落ちるどころか、いわゆる1回瞬きする時間「一瞬」なのだろう。その一瞬の中で、人は悩み苦しみ、人生について語り、喜怒哀楽する。
 子育てがほぼ終わった身としては、賑やかだった子育て期間も今では「あの時間は夢だったんじゃないか?」と思うこともある。そんなこともあったなぁと。自分でもそれくらいだから、他人にとってはもっともっと消えても問題のない儚い夢なのかもしれない。どうでもいい人の夢話だ。
 人生に意味はない。生きる事に意味はない。なんのために生きているか、死んだ人の人生の意味はなんだったのか?それも意味はない。今歩いて踏んで殺してしまったアリの人生にどれだけ意味をあると考えるだろうか?ただ偶然が重なり生まれた命。それに都合の良い意味付けをして、深いものにすることは、生き甲斐にもつながるだろうが、突き詰めて考えれば意味はないと結論づけてもいいのだと思う。
 でもどうせ生きるなら!楽しく充実した人生でありたい。そのためにこだわりを持って、意味を見つけて、目標を決めて、それをいくつも達成して、満足感のある人生を送る。苦難もあるが、それを乗り越えたところに満足があり、それが「幸せ」というものだ。人の役に立つことをする、社会の役に立つこと、周りに迷惑をかけることなく生きる。特に日本ではそんな生き方を推奨してきたような気もする。しかし、国が変われば、また同じ国でも時代によって価値観はガラリと変わる。簡単に言ってしまえば、その生物が生きている環境に応じて、一番生き易く、死ぬ確率の低い生き方をさせられてしまうということだ。辛くなく生きるために環境を整え、心の持ちようもそう持っていく。辛い事にも立ち向かっていくのも、その先に気持ちの良いことがあると信じることが出来るからそれに向かっていくのであって、そうでなければわざわざ苦難に向かって行きはしない。そんなことの繰り返しで人生は進んでいく。神様の悪戯のような人生もあるだろう。思い描いたとは違う人生の方が圧倒的に多いだろう。楽しかったと言えない人生の方が多いかもしれない。

 それでも死ぬまで生きる。日々、食って生きる。なんのために?と考えるヒマもないほど充実している時は幸せなのかもしれない。生きる意味を見つけて、目標を決めて、その目標に向けてせっせと働く。家族のために、社会のために。いらぬことを考える時間がない方が幸せなのかもしれない。ヒマとは困ったものだ。こういう文章もかけちゃうのだから。
 頑張って働こう。要らぬことを考えぬように。







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