今出川通りを東に進んで京都大学前を通過して少し行くと、おもむろに天皇陵があらわれました。これは「後二条天皇」と「後二条天皇皇子」の陵墓です。後二条天皇は南北朝分裂の過程の時代の天皇です。後二条天皇が24歳の若さで崩御された時に後二条天皇皇子である邦良親王(木寺宮)はまだ9歳でした。そこで皇位継承でもめ、鎌倉幕府がそれに口出ししてきたことで討幕運動へと展開して行く事になります。
後二条天皇陵から少し東へ行きますと、子安観音という石像があります。思わず手を合わせたくなるような、親しみやすい石造りの観音様です。この場所は京都の北白川という場所で、ここには昔から「白川女(しらかわめ)」と呼ばれ毎朝京都へ四季の花を売り歩く女性がいる。白川女が朝早く村を出ていく時に子安観音に花をお供えし、商売繁盛と一日の無事を祈っていたそうです。出産間近でも仕事に出る女性が多く、途中で陣痛に襲われないようお願いしたそです。
今出川通りから今度は南に下がる「神楽岡通り」に入ります。そこにはまた天皇陵がありました。「後一条天皇」の陵墓です。後一条天皇は平安時代の天皇で、父は一条天皇、母は藤原道長の娘の中宮彰子です。道長にとっては待望の外孫皇子。8歳で即位することになり、道長が摂政することになり以後権勢を振るう事になります。
神楽岡通りをもう少し下りますと、またまた天皇陵がありました。
こちらは「陽成天皇」の陵墓です。陽成天皇は、後に武家の頭領となる「清和源氏」は実際は「陽成源氏」でありました。しかし、陽成天皇には暴君であったという評があり、それを嫌ってひとつ前の清和天皇の名をつけたと言われています。暴君であったということも疑わしいことも多く、作為であったのではとも言われています。
もう少し南へ下りましたら、ちょっとした敷地に石塔が立っていました。これは京大医学部の納骨墓地です。入り口には「京都帝国大学醫学部納骨墓地」と書かれています。おそらく解剖実習の献体の墓地であろうと思われます。
それにしても、ほんの30分ほど歩いたコースに3つの天皇陵があること自体が驚きでした。規模はそれほど大きくなかったとはいえ、その歴史を調べてみるとその背景の大きさに身震いするほどです。
石造物&子安(講)に興味のあるしんちゃんママとしては
北白川の子安観音にニンマリしました。
街角で、初めて見かけたら、ビックリするでしょうね。
そして、ワクワクしそう。
これだけの大きさだと初めて見た時は驚きました。とても親しみのあるお顔でした。