書道展に行っても、何が書いてあるのかまったく読めないことが多い。
ちょっと高級な料亭に行って、床の間にかけてある掛け軸もほぼ読めない。
先日見た「承久の乱展」でも古い書物がたくさん展示してあったが、
なかなか読み下せない。
でも、それでいいのだ。
読めない書はまず「絵画」として楽しむ。
次に、自分で筆を持ったつもりで、
指先をダイナミックに書の筆捌きを追って動かしてみる。
そうするとその書を書いた人とシンクロできる瞬間がある。
それが快感なのだ。
上の掛け軸は「葉々起清風」と書いてある。
毛筆だと筆の軌跡や強弱、跳ね、止めなどすべての情報がある。
まさしく音楽でいう楽譜。
書を見ることは、ひとつの曲を聴くのと似ているのかもしれない。
書は見て感じるもので、
「絵画は読むもの」というとおかしな感じだが、
絵画は読み解くもの。
「キレイだな〜」でも良いのだが、
もっともっと絵画には情報が入っている。
絵画展に行くと、その画家のプロフィールが詳しく書いてあって、
その絵を描いた時の状況や時代背景など、思想や、どのような人に影響を受けたか、
経済的にどうか、人間関係はどうなのか、
本当は何を描きたかったのか。
そういう意味では、作家が執筆する小説に似ているかもしれない。
という意味で、絵画は「読み物」なのだ。
今でこそ美術展はよく行くが、妻と結婚する前はほぼ行かなかった。
書道展に至っては、知人が「書道展やるのでよかったら見にきて!」と誘われなかったらまず行かなかっただろう。
でも、自分なりの楽しみ方がわかると、とてもワクワクするのだ。
楽しみ方は自由でいいのだと思う。
散歩の楽しみ方がそれぞれあるように、書や絵画も同じなのだろう。
梅雨入りは昨年より25日も早かったのに、
アマリリスの蕾が出てきたのは、10日も遅かった。
書道も絵画も楽しめる境地にまでたどり着けそうにありません、ハードルが高すぎます…
Akiさん
妻が小さい頃から美術展好きで、新聞屋さんが美術展のチケット持ってきてくれて、電車に乗って30分で京都市美術館に見に行ける環境にあったのが大きいと思います。
>書道展に行っても、何が書いてあるのかまったく読めない
⇒同じでした。
パイプオルガンの友達(10歳年上)Sさんは
著名な女流書家に師事し、著名な展覧会の会友。
Sさんから、書の見方を教えてもらったら、
わからないなりに楽しくなりました。
次回作に対して、常にアンテナをはり、
気になった言葉や文章が街の中にあったら、手帳に書きとめる。
紙の大きさや余白を考えて、
文章の途中でもわざと行を変えるとか・・・。
国立新美術館(六本木)にSさんの作品を見に行った時、
びっくりびっくりの書に出会いました。
西城秀樹の〝ヤングマン〟の歌詞の一節を書にして、受賞。
書かれた方の年齢や性別はわかりませんが、
目からウロコでした。
書はなかなかハードルが高いです。
それでも、お茶を習っていたときには、床の間には必ず何か書かれた軸がかかっているので、それを拝見してとなります。ほとんどは先生が説明をしてくださるのですが、なかなか達筆な書は読めませんね。
実は昔若い頃、恥ずかしながら書き順なんてどうでもよいと思っていた方ですが、こういう書を見るとやはりちゃんと書き順があってないと草書は偉いことになるなあと深く考えを改めました。
しんちゃんママさん
>〝ヤングマン〟の歌詞の一節
面白いですね〜!
その時感じたことを「文字」にして筆で表現すること、それが自由に出来たら素晴らしいだろうなって思います。
よく自分の部屋に「禁煙」「絶対合格」「今年こそ痩せる!」とか、決意を示すものを貼りますが、あれが原点なのかなとも思ったりします。(^_^)
アプリさん
データの記録としての文字は万人が判読出来なければいけませんが、絵画は「人」が「人」に見えなくても問題ないように、「書」を絵画としたら「絵画」なら、文字が文字に見えなくても問題ないのでしょう。
書き順通りに書いた方が、筆の動きに無駄がなく効率的で美しいです。