「ヘェ〜そうなんだ」って思った。
「小説」を総称として英語で「フィクション」という。
長編小説は「ノベル」で、短編小説は「ストーリー」、
フランス語で長編小説は「ロマン」。(ロマンス語で書かれた散文詩という意味らしい。ロマンス語とは「ラテン語の口語である俗ラテン語に起源をもつ言語の総称である。」とのこと)・・・なんだか知らないことばっかりだ。
「フィクション」「ノベル」「ストーリー」「ロマン」という日本語の単語は、
言われてみれば「ヘェ〜そうなんだ」なんだけど、
日常そういう意味で使ってはいなかったなぁって。
「小説」があるなら「大説」があるのか?というと、あるんだな。
「君子が国家や政治に対する志を書いた書物」を「大説」といい、四書五経がそうらしい。「論語」は「大説」ってこと。
それと古事記や日本書紀のように「国史」に分類されるようなのも「大説」になるかもしれない。
それに対して、「個人が持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆に、より具体的に分かりやすく表現して示す」ものをノベルといい、それを「小説」という日本語に訳したのが小説家の坪内逍遥。
だから日本での「小説」と呼ばれるものは明治以降であって、
江戸時代の仮名草子や読本をはじめ、南総里見八犬伝や東海道中膝栗毛なども小説とは呼ばない。
小説家に憧れた時もあった。
毎朝起きて仕事に行かなくてもいいし、好きな時に好きな文章を書いて、
気が向かなければ散歩に出かけて、肉体労働はせずに売れたら印税生活ができる。
怠け者の私はそんな生活に憧れたもんだが、
現実はそんな生易しいものではなくて、
一言一句を絞り出すために、血のでるような努力をされ悩んで苦しんでいるようなので、
どの道も大変なものなのだなぁと思うばかりだ。
まだ私のように日々駄文をつらつらと書き記していた方がお気楽でいい。
何事も、それで食っていくのは並大抵のことではないということだ。
これだけ小説のことを書いてきたが、
私はさほど小説は読まない。
学生時代はよく読んだが、今は老眼が出てきたこともあって面倒になってしまっている。
その分、映画をよく観るようになった。
それと耳で聴く、ラジオドラマや朗読など。
耳から得た情報を元に、頭の中でイメージを広げる作業というのは楽しいものだ。
「無限に広がる大宇宙」という単語を読んだり、それを音で聞いただけで、
頭の中で自分なりの「大宇宙」をイメージできるのだから、こんなに便利なものはない。
それもコンピューターグラフィックを駆使して作り上げた映像よりも、
もっと精細で壮大なものを作り上げることが出来る。
そのイメージで作り上げるものを、もっともっと素晴らしいイメージにするために、
日々現実の中で、絶景を見たり、感動的な瞬間に立ち会ったり、心ときめかせたりしている。
妄想を楽しむことは至福の喜び。
どんな時でも無料で上映可能だ。
小説家、私も憧れてました。
好きな文章を書いて、それが本になってお金がもらえるなんて、でも、確かに、よく締め切りに追われて、出版社の社員から催促されたりと、ホテルに缶詰になって必死で書いているとかドラマになったりして、想像以上に大変な仕事だと思います。
憧れていた作家の一人は、既に亡くなった栗本薫(別名中島梓さん)さんでした。壮大なグイン・サーガというヒロイック・ファンタジー小説で、未完で(130巻)終わってしまいましたが、続篇を違う作家が引き継いでいます。今、最初から読み返してますが、最後まで読めるのかどうか・・・
聴く小説は、散歩のときに聞いていますが、慣れないせいか、話す速度だと十分に理解できなかったりするので、本当は本の字(漢字やひらがな)を見て理解する方が好きです。確かに集中力がなくてなかなか読めないのが現実ですが。小説ではなくて、how toものなら、聴くで聞き流してもいいかなと思います。
アプリさん
グイン・サーガシリーズは、妻がファンで「いつか全巻読み返す!」と言って、売りに出さずに残してあります。
しかし、学生時代に買った古い文庫は、現在のものより文字が小さくて読めそうもないと残念がっています。文字の大きいものを買い直すのか、読むのを諦めるのか迷っているところ。
聴く小説は、布団の中で聴くと良い「睡眠導入剤」になります。人の声って安心感が出るのか、音楽よりも寝つきが早い気がします。幼児の枕元で絵本を読んで寝かせつけるというのは、理にかなっていると思いました。