小学生の頃だったろうか。
自宅の自転車を入れる物置きの入り口でのこと。
その辺りは夏になるとアリの巣が出来て、いつも列をなして歩いていた。
ある日、そのアリの行列の上を自転車で通ってしまった。
いつも通っているから、たまたまその時だけアリの行列のことを知ってしまっただけのことなのだが、
数匹のアリが痛そうにひっくり返って手足をバタつかせている。
「あ!ゴメン!」
すでに息絶えているアリもいた。
それなのに、アリの行列は何事もなかったように進んでいる。
誰もその傷ついたアリを助けようとせず、
我関せずとばかりに列を乱すこともなく通り過ぎていった。
それを見た時に、
「なんて薄情なんだ」と思った。
いつも同じ巣の中で生活している仲間じゃないのか?!
(加害者は自分なので憤る立場じゃないけど)
虫だからそんなもんなんだな、感情なんてないのかもな。って思っていた。
今になって思う。
自分も一緒だって。
自分の身内や知り合い以外の「死」は所詮他人事なのだ。
自動車に乗っていて「渋滞しているなぁ。どこかで事故なのかな?」って、
やっと現場を通り過ぎる時に、
グチャグチャになった車を見て「うわぁ、あれじゃ乗っていた人ヤバいんじゃない?」と思いつつ、
通過していく。
すでに警察も来ていたし、当事者も救急車で運ばれた後だったが、
あの時のアリと同じく、車の列を崩さず前の車に付いてその場を走り抜けた。
「死」って身内や知り合いに限ったものが現実であって、
自分を含めて、身内や知り合い以外の死は、他人事なんだな。
それを「他人事じゃない」と思ってしまうと、
日常が死で溢れてしまう。
毎日毎日、新聞の「おくやみ」を見て涙を流していられない。
なのに、我が街でコロナの死者が出たとなると「他人事じゃない」って思うのはなぜだろう?
そう思わされてしまっている。
「まだ小学生の子供がいるお父さんだった」などと書かれると、
徐々に「他人事」とは思えなくなる。
日本では毎日平均3,280人が死んでいるのだ。(平成17年~平成22年 厚労省)
と言うことは、1年間には、
3,280人×365日で、119万7,200人も死んでいる。
「今日は何人死んだ」といちいち言われていたら、次は自分の番だと思ってしまいそうだ。
私も立て続けに身内が亡くなった時には「次は自分の番だ」って思ったくらいだ。
あまり「他人事」の死を、身内や知り合いの死として考えてしまうと、
悲しみが増えるばかりだ。
他人事の死を、いかに私事にして感情移入し関心を持ってもらうか。
それが報道のような気がする。
言っちゃなんだけど、他所の国で誰かがたくさん亡くなっても、それを知らなければまったく関係ない話。
巡り巡って自分に関係してくることだよって言われても、
あまりピンとこない。
若い頃は大きく無限に広がる世界に憧れるが、
ここまで生きてくると、狭い世界の中での大宇宙が心地よい。
他人事は他人事。
自分のことだけで精一杯。
いま、目の前のことだけでいっぱいいっぱい。
そのくらいで良いのだ。
ドラクエの勇者じゃないんだから、世界平和のことや、地球のことまで心配していられない。
(NHKの街頭インタビューを受けたら平気で「これからの地球が心配ですから、少しでもCO2が減らせるように自分なりに気を付けています」なんて答えそうだけど。もしその時は鼻で笑って欲しい。)
でも、おめでたいことは「他人事」でもカムカムウェルカムだ!(^_^)
それを言い訳に酒が飲めるぞ!ってくらいがいい。
『狭い世界の中での大宇宙』を大事にしたいです。(妄想界も入る)
自分と重なる要素次第でしょうか。
東京都の感染者数。
自分の県に持ち込まれなきゃいいな。
と、つい思います。
小学生の時にアリを踏まないように庭を玄関までつま先立ちで歩く奇妙な友人がいた。お釈迦様の時代は僧侶が耕作しないのも雨期に移動しないのも、虫を切りつけたり踏みつぶしたりしないようにという配慮からだと知った最近、彼はそういった時代のそういった一門からの転生者なのかも・・と思った。
カラスさん
井の中の蛙としては、やはりその井戸の深さと、空の青の深さで宇宙を感じたいところです。(妄想界も一緒かと思います)(^_^)
一般人さん
情報が多過ぎて、関係ないことまで心配させられているように思えて仕方ないです。ニュースのほとんどはほぼ自分には直接関係ないことばかりで、よくわからないけど不安にさせられている感じがします。
あかいみさん
その少年は「死」を恐れていた時期だったのでしょう。夜な夜な布団の中で「自分にもいつか死ぬ時が来る」という恐怖に怯えていたのです。
私も梅雨の頃は、虫や小動物に配慮するために仕事に行かず解夏まで部屋に引きこもりたいんだけど、なかなかそうさせてもらえません。