「あの時はなんであんなことをしたんだろう?」
「あの時はなんであんなことを言ってしまったのだろう?」
自分でも不思議。
そんなことがよくある。
でもその時はそうすることが当たり前の流れだった、
頭で考えずに気づいたらその言葉が口から出ていた、
何かに突き動かされるように体を動かしていた、
そうするしかなかった。
なんであの頃、あんな髪型にしていたの?
どうしてあんな服を着ていたの?
なんでだろうねぇ。
そんな頃が滑稽でもあり、誇らしいことでもあったりする。
やっぱり自分の考えとは違うところで行動させられてしまっている部分って、
自分が思う以上に多いのかもしれないなって思う。
「自分でよく考えて行動しなさいよ」という言葉も、
虚しくなるくらい、
自分の頭ってそれほど賢くない。
日々の日常だって、どれほど頭で考えて行動しているかも疑問である。
五感だってもういい加減なもんだ。
視力もほぼほぼ見えていなくて、あとは過去の経験から推察して「おそらくこの大きさで、この重さで、この色のものはきっとあれだろう」って思い込んでいるだけだし、
嗅覚、聴覚、味覚、触覚も似たようなもんで、どれもポンコツになってきた。
頼りは過去の経験によるカンというか思い込みだけだ。
自分の家の中は、その長年のカンがあるから暗くても歩けるが、
そうでなければ一歩も動けなくなるだろう。
暗い中で家のトイレに行くのも、
いつも何もない場所に、何かが置いてあれば突然「何があるのだ!?」とパニックになるだろうし、
その置いてあるものが家族が勝手に置いたものであったなら、
「誰がこんなところにこんなものを置きやがった!」と腹を立てるだろう。
心臓は勝手に動いているし、
気がつけば痒いところを無意識にポリポリ掻いているし、
立っていても軽く足踏みしたり、右へ左へ体重移動している。
なんだかんだで頭で考えずに動いている。
自分の意思で「こう動こう、そして次は動く」なんて考えたりしない。
「いつも自分で考えて行動している」と思っているかもしれないが、
それは1日のうちでもほんの少しかもしれないと気がついた。
「お腹空いたし、ご飯作ろう」と思っても立ち上がる時だって、
立ち方なんて頭で考えたりしない。
「どうやって立ったの?」と聞かれたって「どうやってって、普通に立っただけだよ」と答える。
料理を作ろうって「レシピを見ながら考えて作った」と言っても、
細かい動きまで考えて動いていない。
ほとんどの動きは今までの慣れでプログラムのスタートボタンを押したら、
あとは自動運転って感じだ。
それが「慣れ」っていうもんだ。
そんな「慣れ」という小さなプログラムがたくさんあって、それの組み合わせで日常が回っている。
でもそれだけじゃ飽きるから、時々「非日常」を入れて、
新しいプログラムも試してみて、全体の活性化を図ったりもしているのかな。
そう思うと日常って、
慣れという「自動運転モード」がほとんどで、
「手動運転」は思ったほど多くないかもなぁって思った。
若い頃はすべて手動運転しているつもりだったけど、
それもどうなんだろうな?
体のあちこちが痛くなって、気を遣いながら動かすようになってきたからこそ、
それが判ったのかもしれない。
人間は、ちょっとの小さな瞬間的な判断をするだけで、
あとはほぼ自動運転なのかもしれない。
その時のあやふやな情報でのいい加減な判断も、あった方がいいのか、無い方がいいのか、
それもよくわからない。
もしも、その「自動運転」というものを、
「運命」と呼ぶなら、
素直にそれを受け入れるべきなのだろうか?
体が勝手に・・・
そうするしかできないのだが、
それが「なるようにしかならない」ってことなのだろうか。
私、「どうして、あんなことを言ってしまったのか」
「なぜ、こんなことをしてしまったのだろう」と
振り返っては、そんなことばかり考えています。
自分がしたことなのに、まったく理解できないこともある。
瞬間的な判断というのは、脳内の素(本能)の部分が働いたものだとすれば
素がよろしくないということだろう。相手があってのことならば、もはや言い訳もなにも通用しない愚行となってしまう。相手に迷惑をかけたり、傷つけたなら、とりかえしがつかないことだ。
60年以上も生きて来て、全く自分が誇れない、好きになれないというのは苦行でございます。
後で振り返ってどうしてあんなこと言ってしまったのだろうってことは公私ともにありますね。行動でもあったりします。
体が勝手に動く、いつもガチガチに考えて動いてたら、緊張の連続で疲れてしまいそうです。なので、毎日は今まで経験値によるもので動いているに過ぎず、それが新しい環境に変わると適応するのにたいへんかもしれませんね。でも、刺激も必要だから、少しだけ何か変化もないと面白くないしと思うのですが、それが年齢とともに変化に付いていけなくなる、それが老いなのかもしれませんね。
話は変わって、最後の葉っぱの写真は、好きな植物のエピスシアでしたね。
種類はわかりませんが、ピンクの花が咲くのだとピンクパンサーという名前のものがあります。寒さが苦手なので、植物園の温室などに行くと見られるのですが・・・
細かい部分は大脳では考えない仕組み。
分業しないと大脳がオーバーロードでパニックになります。
老齢化でまわりを見る注意だけは、するようにしてます。
カラスさん
同感です。でもきっと、みんな似たり寄ったりなんだと思います。
「60年ほど生きてきたけど、私は誰にも迷惑かけずに生きてきたつもりだし、誰も傷つけてこなかったと自負している。そんな自分を誇りに思っているし、そんな自分が大好きで〜す!」っていう人がいたら、「こいつあかんわ」って思いますもん。(^_^)
アプリさん
最後の葉っぱの写真は、お察しの通り「京都府立植物園」の温室での写真です。よくご存知ですねー。とても綺麗な葉っぱだったので写真に撮りました。
綺麗だなぁって思ってすぐに写真撮ってしまうのも、反射的にやってしまうので、あまり考えて行動していないかもしれません。そんな一連の動作がシステム化されている感じです。(^_^)
一般人さん
近頃、アナログが心地いいです。こうやって文章を書くのも、キーボードを叩くのでなく、万年筆を持って文章を書くと全く別の脳の部分を使っている感覚になりました。
でも、漢字が出てこないので結局スマホで確認したり。ここはやはり字引きの出番でしょうかね?(^_^)
>漢字が出てこないので結局スマホで確認
⇒よくわかります。
昔なら、国語辞典でしたが・・・。
こうして、KIRI様のブログに参加させていただくことは頭の体操です。
ありがとうございます。
しんちゃんママさん
国語辞典を開かなくなりました。そう思って、昨日は国語辞典、漢和辞典、類語辞典、英和辞典をすぐ手の届くところへ出しました。さて、開く日が来るでしょうか?(^_^)