「なにこれ?!」
と呆然と立ち尽くした。
「身動き取れなかった」に近い。
はじめてゴッホの絵を見た時の私の反応だ。
「舌筆に尽くし難い」とはよく言ったもので、
言語化が難しいということだ。
「どうだった? 秘仏の弥勒菩薩は?」
「すごかった!」
「それじゃわからないよ。どうすごいのよ?」
「そう言われても、すごいもんはすごいんだよ」
感動したことを言語化するのは難しい。
「美味しい」とか「美しい」を言語化するのは、
小説家じゃあるまいし、スラスラッとその感動を言葉で表現することはほぼ不可能に近い。
本当に感動的なものに出会った時は、
「驚くべき描写力」とか「卓越した才能」とか、「感銘を受けざるを得ない」とか、それらの言葉が嘘臭く、薄っぺらく聞こえてしまう。
テレビでの「食レポ」でも、
「美味しい!」だけではダメなようで、どのように美味しのかを言語化しないといけない。
「口の中でスッと溶けていく感じ」「甘さがしつこくなくて、あとからグッとくるような」「最初は甘く感じで、あとからガツンと辛さがくる」とか、「まったり」「スッキリ」「やさしい」「ジュワッと」「ホワっと」「気持ちいいプチプチ感」そして「海の宝石箱や!」などの表現を用いたりして苦労されている。
でも、ゴッホの絵を見た感動をどう表現しよう。
「ガツンとやられたって感じ」「言葉にできないほどの衝撃を受けた」「一気に血圧が上がった」とか言われても、
それがどんな絵なのか皆目想像できない。
「それくらいすごいってことだよ」って言っても何も伝わらない。
相手がその感動を少しでも共感出来るくらいの言語化ができればいいのだろうが、
なかなかそれは難しい。
英語だったら26文字のアルファベットで全てを表現しようっていうのだから無理がありそうだ。
日本語でも、多くの漢字と平仮名とカタカナを組み合わせてみても、その感動を文字化することは相当なテクニックが必要だろう。
いずれAIが今よりも進化したとして、
ゴッホの絵をAIに見せて、その感動を言語化するということは可能なのだろうか?
その前にAIが感動するのだろうか?まずはそこからだ。
感動とは何か?から教えないといけないのだ。
で、感動ってなんだ?
ゴッホの絵を見ても感動しない人もいるだろう。
感動した人も、どこに感動したのかを言語化できないのであれば、それを伝えることも難しい。
「何をそんなに感動しているの?」と言われても、
「だってすごいじゃん!」
「どこが?」
「この色使いと、絵筆のタッチがさぁ・・・・・う〜ん、もういいわ!」
ってなる。
AIもゴッホの絵を見ても、
「これはゴッホのひまわりですね」
「で、見てどう思った?」
「こういう時にはどうしたらいいのですか?」
「感動すればいいんじゃない?」
「感動ってなんですか?」
「心がこうグワー〜って鷲掴みされるような、なんていうの?こうグッと心が動かされるみたいな」
「心は動かされへんやろう〜、それよりどう持つんや?え?」ってAIからツッコミが入りそうだ。
小学校での何かの体験学習でも、
「それじゃ、今日体験して驚いたこと、感動したことを明日までに作文を書いて来てくださいね。
『すごかった』とか『楽しかった』だけじゃダメですよ!」
という宿題に苦労した。
「すごい」がダメなら、
「ものすごい」「チョーすごい」「やばい」「ゲロやばい」「凄まじく凄い」「ホントにホントにホーントにすごかった」もダメかな?
「ダメです。」
「感動」ってなんだろう?
同じものを見ても、聞いても、触っても、
感動する人と、何も感じない人といる。
それの歴史を知っていたら、それが出来るまでの経緯を知っていれば、
それを作った人が有名な人だと知ったら、
実物を見てみたら、
と言う条件つけたら、すごく感動した。
それってなんだろう?
それを言語化って出来るのだろうか?
ホントに難しいや。
作品名は忘れたけど、初めてゴッホを見たのは県内の美術館でのこと。印象派展だったのでモネやルノアールとかなんとなくほんわかというか、輪郭がはっきりしない作品ばかり見た最後、出口付近にそれはありました。真逆で色合いがはっきりしてたので余計にインパクトを感じたのでしょうね、ある意味印象派展はゴッホを見せるための前座だったかな。
私は小説を書いていますが、多少勉強もしました。そのとき学んだのは、「彼女は感動した」などという文はだめなのだそうです。
「彼女は悲しかった」というようなものもだめ。どう書くのかというと「彼女はその場から一歩もうごけずに震えていた」などとするらしいです。
Akiさん
一番見せたい絵をどうすれば更によく見えるようにするのかが、腕の見せ所ってところなんでしょうね。借りて来たたくさんの絵画をどのように並べて、どんな解説をつけるのか。そのテーマによって見え方が全然違ったりするので、それも美術展の面白いところです。
Sekineさん
なるほど面白いですねー、勉強になります。
「悲しい」一つでも無数の表現方法があるのでしょう。音楽でも、このコード(和音)を使うと悲しい感じなるとか、この和音からこっちの和音へ移行すると物悲しさを感じるとかあります。
きっとあらゆる分野の芸術でも同じようなものがあるのでしょう。自分に一番合った表現方法が見つかれば幸せな気がします。(^_^)
>相手がその感動を少しでも共感出来るくらいの言語化
⇒むずかしいですね。
都内で、興福寺の世親様と無著様に出会った時の衝撃を
どう表現していいいか。。。
毎年、ご開帳に興福寺北円堂へ行きました。
狭い堂内に2時間いたら、不審者に思われたかも?????
聞き上手を思いました。
子供が体験学習をしてきた時に、親が質問することで、子供が答える間に、頭の整理がされていきます。何度か繰り返すと、いずれ、子供が饒舌に語り始める。
しんちゃんママさん
あの然程大きくない北円堂に2時間は、なかなかインパクトありますねぇ。(^_^)
でもお気持ちはよくわかります。ずっとそこにいるだけで気持ちいいというか、抱きしめられる安心感というか、浄化されていくような感じでした。
一般人さん
おっしゃる通りです。
どうだった?と聞く前からペラペラ喋り出す子もいれば、「べつに〜」と言うだけで何も答えない子もいたり、つつけば色々喋り出す子もいました。
喋らない子にも、上手に聞いてあげればよかったと思うばかりです。
感動を言葉で表すのはむずかしいですね。
美術作品を見てすばらしいと思ってもその感動した部分は人それぞれでしょう。
それを見たときのその人の状態によっても感じ方は違うと思うし、趣味趣向によっても捉え方は変わりますね。
私は、油絵、ゴッホとかは見るに値するとは思っても、油絵が自分の好みではないので感動する加減がそれほどではないのです。逆に好きな日本画だとどれを見ても心に染みこんだりしてしまいます。
京都国立近代美術館で見た、不動立山の「夕立」はずっとその場に居続けたいと思いました。もう、2度と見る機会がないと思うと残念です。
233.5×174.8なので、見上げるほどの大きな絵でした。
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=150848
もし、AIで感動を表現してしまうことをしてしまったら、なんだか画一的なことになってしまうのでは?美術館の学芸員の方は困りますね。
アプリさん
てっきり「不動立山」は作品名かと思ったら、明治19年生まれの京都画家さんなのですね。この絵は京都国立近代美術館所蔵とありますので、また機会があれば展示されるかもしれません。
もう一度見てみたい絵っていくつもあります。仏像のように、その絵に包まれたいとか、その絵の中に入りたいとか思う時もあります。
あの感覚はなんなのでしょうね。到底言葉では表現できません。
感情表現など、難しいですよね。
自分の気持ちだけでなく、他者からの共感も必要だし
流行りコトバ、外国語、専門用語を多用しても、自分のものになっていなかったりして。
知っている限りの形容詞を並べても、よく伝わらない。
手持ちのコトバが少ない私は、いつも「稚拙です」と言われてしまう。
単にコトバの数やワザだけでなく、五感で受けたものを素直に表現できるようになりたいものです。
カラスさん
うんうん、ホント同感です。
楽器の演奏だったり、絵を描くことだったり、文章を書くことだったり、テクニックじゃなくて元々持っているセンスというのでしょうか、そういうものがある人がいらっしゃる。それが上手に使えればいいのでしょうけど、どうしてそれをそんな使い方をする!という場合もあって、なかなか難しいもんだなって思うばかりです。
「金もいらなきゃ女も要らぬ、わたしゃもすこし背が欲しい」とい人もいるのだから、生まれてくるときに自分でそれは選んで出て来たという人もいます。でも、そんな記憶はまったくない。もう一度選べるとしても、きっとまた悩むに決まってるし。(^_^)
まさに小林秀雄言うところの、~美しい花がある、花の美しさというようなものはない~つうことでしょうか。。芸術で考えるから難しいんで、あの美少女アイドルの美しさを記述せよ、と言われてもやっぱできないよね。でも、絵とか音楽とかならできるんだよね、言葉を使っても詩ならばできる。ほわっとは表せるけどガシッとはつかめない、美は素粒子みたいなもんですかね。
あかいみさん
さすがの小林秀雄だなぁ。AIが芸術がわかるようになるのかが気になるんだよね。アンドロイドが小さな花を見て涙を流す時代が来るのかなって。人間が失ったものが、アンドロイドに息づいているとかね。
「美は素粒子みたいなもん」名言かもね。(^_^)