さだまさしが歌う「恋愛症候群」と言う曲の中で、
”求め続けていくものが恋、奪うのが恋”とある。
スタンダールの「恋愛論」では、恋を「結晶作用」により説明されており、
「アバタもエクボ」のように、「ザルツブルグの小枝」として語られている。
「ザルツブルグの塩坑で、廃坑の奥深くへ冬枯れで葉の落ちた樹の枝を投げ込み、二、三か月して引き出してみると、それは輝かしい結晶におおわれている。山雀(やまがら)の足ほどの太さもない細い枝も、無数のきらめく輝かしいダイヤをつけていて、もうもとの枯れ枝を認めることはできない」
恋は、いわゆる「妄想」によって作り上げられた「架空の人物」への憧れみたいなものでありそうだ。
であるから、その妄想による架空人物の「実像」に触れたときに、
「そんな人だと思わなかった!」と、一気に「大嫌い」へと転落する。
思われていた方としては、勝手に妄想されて、大好きになったり大嫌いになったり迷惑この上ないこともある。
「告白した方がいいかな?」
ひとりで盛り上がって、その感情を抑えきれずに友人に相談する。
友人も無責任に「そんなに好きだったら告白するべきだよ。後悔しないようにね。」とアドバイス。
「突然にごめんなさい。あなたのことが好きです。つきあってください!」
と言われた方も困惑するだろう。
お互いに少しずつ存在に気が付き、
意識し合って、日々笑顔を重ねて、
偶然も必然もタイミングもラッキーも、
すべて満を持して、
お互いに呼吸を合わせ、
行司が「待ったなし!」と気合を入れたところで、
「あなたが好きです」ならいいけど、
お互いの呼吸が合わないと、
神事も出来ない。
星野源が「逃げ恥」で歌った「恋」と言う曲の中では、
”胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それは側にいること いつも思い出して
君の中にあるもの 距離の中にある鼓動
恋をしたの貴方の 指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ ”
この最後の「夫婦を超えてゆけ」と言う一説が気になる。
夫婦というと、私の中では、
恋を拗らせながらもどうにか卒業して、そこから戦友みたいになって、今では「愛ってよくわからないけど? 情の方がピンとくるかな?」とか思いつつ、星野源の「それは側にいること」にも、うんうんって頷いたりするけど、結局「夫婦」ってものもよくわからないし、「恋」も「愛」もよくわからない。
たくさんの夫婦の形があるように、それぞれに「恋」があり、それぞれに「愛」があるだろうから、
誰がどのように「恋」を語り、「愛」を綴り、「夫婦」を歌っても、
「それは違う」と言えないだろう。
恋に恋する時は、足るを知らぬ時なのかもしれない。
足りぬから「乞う」。
そう、「恋」は「乞い」かもしれない。
足りないものばかりで、金もないし、やらなきゃいけないことはあるけど、やりたくないことややれないことばかりで、
「恋に乞いする季節」なのかもね。
色々と心に空いた穴が塞がれてくると、恋という架空の人物の影は不思議と薄くなってくる。
それなら「恋愛症候群」の ”求め続けていくものが恋、奪うのが恋” にも、つなげられる。
実際にこの年齢になると「恋」なんてどうでもいいと思っている。
10代の子の「コイバナ」を聞いても、きっと興醒めするようなアドバイスをしてしまいそうだ。
「それはね、一時的な気の迷いなのだよ。すぐにそんな気持ちも醒めてしまう。」
「違う! 私たちの愛は永遠だもん!死んでも離れないから!」
ある意味、純粋で眩しすぎる。
「現実はね、そんなこと言ってられないの」なんて言うのも憚られる。
結婚制度、一夫一婦制、税制問題、相続問題、世間体など一切考えずに、
素直な自分の心に従えば、恋をしている二人の方がよほど健全なのかもって思ってしまう。
今は、「恋とか愛とか夫婦とか、そんなことはよくわからないけど、側にいたいと思う人といつも側にいればいいんじゃないかな?」って思う。
ナポレオンもこう言っている。
”女とパリは留守にしてはだめだ。” (切実でちょっと吹いた)
ミラボーもこう言う。
”短い不在は恋を活気づけるが、長い不在は恋をほろぼす。”
私の好きな玉置浩二さんも、「しあわせのランプ」と言う曲の最初でこう歌う。
” しあわせになるために 生まれてきたんだから
好きな人と 一緒にいなさい ”
いい曲だ、大好き。
結局いつものことながら、結論なんてない。
それでいいのだ。
この歳で「恋」について考えてみることは、
私にとって、「久しぶりに数1の問題でもやってみようかな?」って思うようなもの。
近頃、中学と高校の数学をもう一度やり直したいなって思っている。
数学が好きだったあの頃に戻りたいのかもしれないな。
漸化式が、お勧めです。
クイズのように、楽しめます。
世の中には、たくさん『恋バナ』が溢れていますね。
『恋いに恋する』というのもあるかもしれません。
昔は、年頃になれば皆、結婚するのが当たり前だったかもしれませんが、今は、恋いする、しないに関係なく、未婚者が多いようです。
いっしょにいたい、結婚したいと互いに思える出会いがあることは、しあわせなんだろうと思う昨今。
『恋』も『数式・数学』も、解くのが難しいということでしょうか。
確かに、チャレンジ感はあるでしょうが
高ⅡBに壁を感じて選択出来なかった私としては、やはり『恋』も難問であります。
一般人さん
ありがとうございます。物色してみます。(^_^)
カラスさん
「恋」について書いていたら、頭が沸騰しそうでした。数学も同様です。恋をするための脳や、数式を解く脳をたまに使うと翌日筋肉痛を起こしそうです。きっと使う部位が違うのでしょうね。
恋している真っ最中って「君はかわいい」「君が大切だ」といいながら、自分自身のことを最もかわいくなっている時であり、自分が一番大切な時なんだよね。そういう言ってることとやってることが違う究極の状態が「恋」だと思います。
なので醒めてみると俺ど~かしてた・・ていうことになる。こういう事ってオッサンになった今だから達観して言えるばかりではなくて当事者で真っ最中にいるときからな~~ンとなく感じてるよね。夢見ながら、あーこれきっと夢だ、、みたいな感覚に近いか。恋に悩むという事は人間自分が一番かわいいんですよ、という事を身をもって知るための最も簡単な手段かもしれない。
あかいみさん
正直なところ、恋をしていた時の気持ちを思い出せないんだよね。「確かこうだったかも」と思い返したものは、きっと違うような気がするんだよね。もうあの時の気持ちには戻れないのかもしれない。あかいみさんの意見も確かにそうだったかもしれないって思う。
「恋に悩むという事は人間自分が一番かわいいんですよ、という事を身をもって知るための最も簡単な手段かもしれない。」
これは面白い。(^_^)
ただこれには相手が必要だ。と書いてみて、
いや、恋をするのに相手の了承を取る必要もないし、勝手に恋していればいいのかって思ったが、頑張っても、気合入れても、踏ん張っても、恋する気持ちになるにはどうしたらいいんだ?って思った。あれはやっぱり降ってくるもんかもしれんぞ。
>戦友みたいになって
⇒義父母を介護していた5年間は『同志』でした。
しんちゃんママさん
様々な姿に変化する不思議な関係。夫婦って未だによくわかりません。これだけ長く一緒に暮らしても、まだ妻のことも全くわからないし。
「自分のことは自分が一番よく知ってる」なんてことも、よう言いません。
恋、若いときのような恋愛感情はないかもしれませんが、ドラマの中の主人公に憧れたりとか、現実でも恋焦がれることはあるのではないかしら?
星野源さんは、好きな歌手です。恋、あの夫婦を超えては、どういう意味かなと疑問符が付きました。
算数は好きで得意だったのに、中学に行き、幾何学に躓きましたね。
時間があればもう一度読んでみたいですが、眠くなってしまうかしら、教科書。
アプリさん
>ドラマの中の主人公に憧れたりとか
そういう女性って多いですよねー。みんなそうって言っても過言ではないかも。男性で同じように女優さんやアイドルにときめいているとちょっと引いてしまうところがありますが、女性ではイキイキしていて素敵です。女性の方が男性よりも人生の楽しみ方がお上手。
算数が好きだった頃、「え?算数って面白いじゃん!」って気づいた時。あの頃からやり直したいって思いました。
となると、小学算数ドリルからやり直しかなぁ?(^_^;)