学生時代に、参考書を買っただけでなんだか安心した気持ちになった。一度も開いてもいないのに、持っているだけで安心してしまっていた。
それと同じかどうかわからないが、読んだ本をずっと手元に置いておくことで、その知識がずっと自分の中に存在してくれているような錯覚を覚える時があり、その蔵書をなかなか手放せなかった。もうその内容なんてまったく覚えていないのに、「こんな内容だったかな?」っていう記憶もおそらくきっと違っている。だけど、その蔵書の本棚を見渡すとなんとなく安心感があった。「私はこんなに難しい本をたくさん読んできたのだよ」という自己満足だったかもしれない。
「また読み返すから」という理由で処分せずにいたが、いざ処分してみると何に拘っていたのだろうと思う。
それらの蔵書の8割ほどを処分した。正直ちょっとスッキリした自分がいた。
情報をたくさん集めると、安心はするかもしれないが、却って自分を縛り付けて身動きできないようになってしまう。昔は応接間や書斎に百科事典がズラリと並んでいるのが当たり前だった。それが今ではどうだろう?ネットのWikipediaがあれば、無用の長物になってしまった。広辞苑や国語辞典、英和辞典、類語辞典などもほぼ開かなくなった。ネットさえあれば、自分の頭の中は空っぽでも、すぐに情報を呼び出せるようになった。

自分の頭の中は空っぽなのに、たくさん情報が入っているという錯覚している。たくさんの情報を集めて自分で考えて結論を出しているつもりが、蓋を開けてみれば誰かの意見をそのまま受け売りしているなんてことはよくあること。
いつから自分でデータを集めて検証して結論を出すことをやめたのだろう?いつから自分で1からモノを作り上げることをやめて簡単にすごいものができるモノを選ぶようになったのだろう?要領よくやって、すごいというモノを作って人の褌で自分の手柄にする錯覚。「こうやれば簡単だよ」という技がネットにはたくさんある。
少しの労力で、自分の実力以上のものが出せる快感。これは今に限ったことではなく、昔からあることなのでそれが悪いとは思わないが、今この年齢になって一度武器と防具を取り外してみて、自分に何ができるのだろう?ということを知ることは、とても怖いことでもある。
今まで蓄積したものも、多くは忘れ去り、覚えていることも現代は通用しないことも多い。そんなポンコツの今の自分にできること。それがわかった上で、自分が好きになれたらちょっとうれしい気がする。
そういえば学生時代コピー屋さんってあったねー、キャノンのファミリーコピー機が出る前の話、大型のコピー機で試験の資料やら店主がせっせとコピー、原稿の蓋部分が大型で重いので店主の体を心配したけど、日頃から体を鍛えているので大丈夫だとかw
そのコピーの資料を大量に持ち歩くクラスメイト、やっぱ中身には目を通さず持っているだけで安心なのかな、あの人は3年から同級生、4年生で下へ落ちていったけど無事卒業できたのか・・・
Akiさん
今でも自治会の資料とか、大量のプリントやコピーは出力(プリント)センターにお願いしていますが、昔では想像できないスピードでコピーが出来上がるので驚くばかりです。
少ない枚数ではコンビニやスーパーでコピーしますが、こちらは昔ながらでホッとします。
それにしても学生時代コピーした資料の量は半端なかったですよね。
図鑑や辞書は、調べた物の隣を見たりするので、それなりの面白さがあるような。
一般人さん
図鑑や辞書での調べ物は楽しいですよねー。いつの間にか当初の調べ物とは違うところへ行ってしまってばかりでした。今でもネットで同じことをやっています。(^_^)
中学生の頃に使っていた岩波の国語辞典、手元にあります。表紙も中も修正しながら・・・。
超超恐ろしかった国語の冨倉先生が「最新の国語辞典を買っても、この辞典は一生持っていなさい。」とおっしゃったことが忘れられません。なぜか、小学校から大学までで、一番印象に残っているのが冨倉先生。山手線から旧校舎方面を見ていると、思い出します。必ず、同窓会では冨倉先生の話題が出て、みんなで大笑い。
しんちゃんママさん
思い出深い恩師の先生ですねぇ。言われてみれば、私も今でも使用している英和辞典は、中学の頃のもの。ラインマーカーで色とりどりになっているものです。